登山家山野井泰史・妙子夫妻の生き方 — 世界最強のクライマーの登山にかける人生 — |
これは、中学2年生の巧樹くんが宿題のレポートのために行ったインタビューの記録である。
原文は原稿用紙に打ってあったが、紙面の都合で用紙を省略した。
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はじめに 第1節 登山とは何か 第2節 山野井泰史さんの略歴 第3節 山野井夫妻への取材 おわりに ……………… 参考文献 |
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はじめに
今の私には将来に向かって具体的な目標がなく、目の前のやらなければならないことをただ坦々とこなしていくだけで毎日がなんとなく過ぎていくという生活を送っている。そんな時、1月7日に放送されたNHKスペシャルを見た。その番組では、ある登山家の夫婦が特集されていて、ひたむきで一生懸命な姿に強く心をうたれた。私は、この山野井夫妻の生き方にとても興味を持ち、もっと深く知りたいと今回の取材対象に決めた。ともにクライマーである山野井夫妻は2002年にヒマラヤで雪崩に遭い凍傷で指を失っている。この放送は『夫婦で挑んだ白夜の大岩壁』という題で、クライマーとして大きなハンデを負いながらも再び活動を開始し、グリーンランドの未踏の大岩壁に挑戦する苦労と感動を鮮明に描いている。
私は、今自分に出来る最高の目標を設定し、それを達成するためには、どんな苦労も辞さないという山野井夫妻の真っすぐな所に感動を覚えた。この放送を見た後すぐに、山野井夫妻と接点のある方に連絡を取り、是非とも取材させて頂きたいと頼んだところ、2月7日に取材させて頂けることになった。その折、こちらの都合で時間を変更させて頂くことにもなったが、山野井夫妻は快く迎えて下さった。
第1節 登山とは何か
本レポートでは、登山家である山野井夫妻の生き方について、私自身が学んだことをまとめていくのだが、その前に登山について簡単にまとめようと思う。
辞書を引くと登山とは、『山に登ること。山上の社寺に参拝すること。』とある。その対象は、簡単に登れる近隣の丘陵からヒマラヤ山脈までと幅広い。その触れ方は、現代では、宗教の信仰だけでなく、娯楽、スポーツ、職業などとして、広範な人に親しまれている。
登山の種類としては、大きく分けて3つあり、第一にレクリエーションとしての登山、第二に競技としての登山、そして第三に職業としての登山が挙げられる。
第一のレクリエーションとしての登山では、ゆっくりと傾斜を歩くことによる有酸素運動や新陳代謝の活性化、あるいは景観や風景を楽しむことが主である。他にも、森林浴を楽しむなどとその目的は千差万別である。また、日本は山の国であることから、散歩の延長で登れるような手ごろな山も多い。近年の登山靴や登山用具の発達、軽量化にともなって、登山はより身近なものになってきている。
第二の競技としての登山では、国体やインターハイなどで実施されており、特にインターハイにおいては、その厳しいルールなどから最も厳しい競技の1つと言われている。
第三の職業としての登山では、主に登山ガイドや登山家などが挙げられる。登山ガイドは登山の初心者やその山に不慣れな登山者のガイドを請負、山を案内して収入を得る。そのため、その山に関する深い知識と、不慣れな登山者を安全に案内するための経験や技能が必要となってくる。日本アルパインガイド協会という登山ガイドの育成・認定を行う機関もある。次に、登山家についてであるが、彼らには大きく分けて2つの登山スタイルがある。それは、大規模で組織立ったチームを編成して行う極地法と、サポート・チームから支援を受けることもなく、酸素ボンベも固定ロープも使わず完全に自分の力で山頂を目指すアルパインスタイルである。
ここでは、山野井泰史さんが一つのポリシーとしているアルパインスタイルについて紹介しよう。このスタイルは、登る人の力のみに頼ることを最重要視して行う登山スタイルのため、同じ山頂を目指す場合でもすでにノーマル・ルートとしてスタンダードになったルートから登ることは、アルパインスタイルとは呼ばれない。よって、バリエーション・ルートとしての未踏の稜線や岩壁などからの登攀を行うことが求められる。あるいは、ノーマル・ルートであれば、冬季に登攀する、またはソロ・クライミングによって登攀するなどのより困難な状況で登攀することが求められる。したがって、アルパインスタイルは登山の中で最も難しく危険だと言われる。
そんな中で山野井泰史さんは、危険を承知で敢えてアルパインスタイルで、しかもソロで登り続けている。このようなスタイルで登ってきた登山家の多くが、登山中に命を落としているというデータもある。では、どうして山野井泰史さんはそうしたスタイルで登り続けるのだろうか。その点について次節から明らかにしていこう。
第2節 山野井泰史さんの略歴
本節では山野井泰史さんの略歴について紹介しよう。これは、前節の終わりでも述べたように、「どうして山野井泰史さんは危険なスタイルで山に登るのか」という疑問に対する答えの、手がかりの一つになるだろうからだ。
1965年4月21日、山野井さんは東京に生まれた。何をしても普通で目立たない子供だったが、友達が怖がる危険なことを勇気さえあれば必ず出来ると信じていた。高さ10メートルはある場所から下の砂地にジャンプしたり、四階建て校舎の屋上のふちに手だけでぶら下がったりして友達を驚かせていた。このころから他人が怖がって出来ないことが自分には何故かできるという信念のようなものを持ち始めていた。そして何よりも、物心ついた時から冒険と大自然に興味をもち、常に心の奥底には何かを実行したくてうずうずしている気持ちを持っていた。
そんな山野井少年にクライマーになる大きなきっかけを与えたのが、映画『モンブランの挽歌』だった。山野井少年はこの映画に大きな感銘を受け、将来クライマーになろうという夢を持った。また、小学生向けの登山の手引き書の中にあった「酸素ボンベを使わずにエベレスト山頂に登った人間はいない」というのを読んで、『僕なら出来る。いつかは必ず僕が成功させてやる』と、ひとつの大きく具体的な夢が芽生えた。そして、小学校5年生から登山を始めた。
1979年、中学三年の冬になり、受験勉強もせずにクライミングばかりしている少年にお父さんが、クライミングを続ける条件として、社会人山岳会に入りクライミングの基本から教わることを出した。それが出来なければ親子の縁を切るとまで言われた少年は、日本登攀クラブに入った。そこで大学生や社会人と一緒に登りレベルを上げていき、また、彼らを通して社会を学んでいった。1981年、高校一年生の時からは、谷川岳の一の倉沢などを中心に登り難しい冬季登攀も試みた。友人が進学や就職に悩んでいるのを横目に山野井さんの登山はさらに過激になっていった。
1983年、高校を卒業するとすぐにアルバイトで貯えた金を持ち、アメリカのヨセミテ渓谷に向かった。ここで山野井さんはいろいろなテクニックを学び、何よりも誰にも束縛されない自由を得た。それ以降8年の間、北米はもとより南米、ヨーロッパなど各地を回り、厳しい自然の中で高いレベルの単独登攀を成功させ、国内ではかなり知られるアルパインクライマーとなっていた。しかし、山野井さんは、高所、特にヒマラヤに憧れていたものの26歳になるまで標高5000メートルに一度行っただけの経験しかなかった。
1990年秋のある日、山野井さんは、都内で開かれた高所順応研究会に参加していた。この日、カラコルムにあるブロード・ピーク(8047メートル)登頂計画をしている東京都連盟の川嶋保幸隊長をはじめ、メンバー達とも知り合い、いつの間にか月に何度か池袋で行われるミーティングに田端のアパートから自転車で通っていた。山野井さんはそれまでソロ・クライミングがほとんどであったため、ミーティングでの細かな食料や装備の計算に違和感を覚えつつも、ブロード・ピーク遠征隊への参加を正式に決定した。その後、トレーニングを開始し体力への自信をさらに深めた。
1991年の6月からベースキャンプへ向けてキャラバンを開始し、7月2日には7100メートルに第3キャンプが作られた。ここまでの登山の間に他のメンバーと別行動をして非難を受けるなど、いつも単独でクライミングをしている山野井さんにとって、チームでの登山は我慢を強いられる場面が多かった。
7月10日からの一度目のアタックには失敗したものの7月27日からの二度目のアタックには成功した。この登山では、隊員同士のあまりにも複雑な心の動きばかりが気になって、山野井さんは山との一体感をほとんど味わうことなく終わってしまった。しかし、こうしたブロード・ピーク登山からも与えられたものはたくさんあった。このブロード・ピークがあったからこそ新たな扉が開かれたとも言える。他では分からなかった、高所では体がどう反応し、またダメージを受けるか、そして何よりもヒマラヤのスケールを理解出来た。このことにより山野井さんは、より一層大きな夢を持ち始め、多くのクライマーが登るルートと訣別し、技術的に難しい未知のルートを求めることにした。また、大きな遠征隊が行うようなフィクス・ロープ(固定されたロープ)の設置をやめ、日本やヨーロッパ・アルプスでやる登攀のように、1人で自由に行動できるアルパインスタイルでこれからは挑戦していこうと思った。
その後、2000年のパキスタンのK2をはじめとする、8000メートル級の山々の難コースの登攀を数多く成功させた。
しかし、中にはネパールのマカルー山をはじめ、敗退した山も少なくない。これらの敗退の経験は、苦い思い出になると同時に今の自分のレベルを知り、レベルを上げてもう一度挑戦する活力と勇気をもらうことにもなった。また、ブロード・ピーク登山の際に知り合った長尾妙子さんと結婚し、人生における掛け替えのないパートナーも得た。ソロで登ってきた泰史さんがクライミングパートナーとして認めたひとりの相手が妙子さんだった。
ここで妙子さんについて紹介しよう。妙子さんはアルプス三大北壁の一つ、グランドジョラス北壁・ウォーカー側稜に1981年、冬季女性初登攀を果たした。これにより一躍、日本女性屈指の登山家として知られるようになった。その後の経歴は、女性としてではなく一人の登山家としても日本トップレベルといえる。1988年、南米最高峰・アコンカグア(6959メートル、アルゼンチン)1991年、ブロード・ピーク(8047メートル)。同年、マカルー(8463メートル、ネパール)。1993年、ガッシャブルムⅡ(8034メートル)。1994年、チョー・オユー(8201メートル)などだ。登山テクニック、体力もさることながら、高所・低酸素の状況下でもマイペースでいられる強靭な精神力が妙子さんの強みである。
2002年10月5日より開始された、チベットのギャチュン・カン登山には、夫婦で挑戦し泰史さんは見事に北壁第2登を遂げたものの、帰途、天候の悪化と雪崩に見舞われ凄絶な脱出行となった。このことによって、泰史さんは手足の指を10本、妙子さんは18本失うことになってしまった。
クライマーの生命とも言える指を多く失ってしまった山野井夫妻は、もうかつてのようなクライミングは出来なくなった。それはもちろんショックだったが、指を失った後、日本の山を登った山野井夫妻は、自分達が山をどれほど愛しているかを再確認し、今の自分達に出来る最高レベルのクライミングを真摯に目指している。2007年秋にNHKで放送された、グリーンランドでの『夫婦で挑んだ白夜の大岩壁』はその試みの一つである。
第3節 山野井夫妻への取材
前節では、山野井夫妻の大まかな略歴についてまとめた。本節では、山野井夫妻についてさらに深く知るために直接取材をして聞いてきたことについてまとめようと思う。
2008年2月7日、渋谷のNHK出版、会議室にてインタビューは行われた。その日山野井夫妻は、先日放送されたNHKスペシャルをまとめた番組取材記の出版に際して、注文があった500冊あまりにサインをされていたそうだ。
会議室でしばらく待っている間、山野井さんは今まで他の多くの取材を断られてきた方だと聞いていたので、私は少し緊張していた。しかし、山野井夫妻が入ってきた時の笑顔を見たとたん、そんなことは忘れてしまった。実際に取材をしてみても、とても積極的に質問に答えて下さったので、非常に取材しやすかった。取材をしている時は、泰史さんがとても明るく、中心となって質問に答えて下さった。また、妙子さんにもたくさんの有意義なお話をして頂いた。
この時、山野井夫妻に質問したこととしては、第一に「なぜ他のことではなく登山を選んだのか」第二に「登山をしている時、また、頂上に立った後のことについて」、第三に「なぜ危険な体験をしながらも登山を続けるのかについて」が中心である。
第一の質問である、「なぜ他のことではなく登山を選んだのか」という質問に対し、他にどのような人生を送っていたかは考えたことがないという。例えば、学校等で「あなたの夢は何ですか?」と質問されると、9割の人が職業を答える中、泰史さんだけは「どこどこの山に登りたい」という具体的な目標を答えていたという。泰史さんにとっては、昔から山登り以外の人生は考えられず、それが生きがいでもあったという。また、妙子さんは高校時代に初めて登山をした時、他のことにはなかった「自分は、これだ。」という感覚があったという。そして、山野井夫妻が人生を登山にかけていられる理由は、常に目標があるからだという。目標がなくなると不安になるそうだ。
第二の質問である、「登山をしている時、また、頂上に立った後のことについて」には質問がいくつかある。一つ目は、「どうして無酸素、しかもソロで登るのか」についてだ。これに対し、無酸素で登ることについては、自分の肺と心臓で試してみたいということと何もつけずに純粋に山を登りたいからであるという。また、ソロで登ることに対しては、少年時代から1人で練習することが多かったため、それに慣れてしまい特にこだわっているわけではないという。ただし、前節で述べたブロード・ピークのように、大勢で登ると山との一体感を味わえずに終わってしまうことも一つの理由ではあるという。二つ目に、「山で災害に遭って極限の状態になった時、それを乗り切る精神力は、どのように身に付けたのか」という質問をした。すると、嵐や雪崩に巻き込まれても、そのような災害が起きる可能性があることを承知で自分達が登ると決めたので、それは自己責任であり、また、そのような時は、冷静にその災害から逃れる方法を考えるため、頑張ろう等というように感情的にはならないという。だから、あまり精神力とは関係がないとのことだった。
第三に、「危険な体験をしながらも、何故登山を続けるのかについて」という質問をした。これに対しては、怪我のため一か月間入院などをして動けなくなると、じわじわと山登りがしたくなってくるという。そんな時に、やっぱり自分は山登りが好きだと改めて実感するという。
取材ではこの他にも多くの質問をさせて頂いたが、中でも興味深かったものを二つ紹介しよう。
一つ目は、「今まで登ってきた中で、一番難しく印象に残っている山はどこか」という質問だ。これに対し、自分より高いレベルの山を目標に設定するため、どの登山も良く、比べられないという。ただ、本当に自分の力を出し切って下山した時が本当に良い登山だという。そういう意味では、指を失ったギャチュン・カン登山は最高の登山だったという。
二つ目は、「登山のために訪問した、英語の通じない国々ではどのように会話していたか」という質問だ。これについては、クライミングで訪問したペルーなどでは、スペイン語しか通じないため、自分が知っている少ない単語を身振り手振りで意志を通わせていたという。また、その中にも笑いがあったそうだ。
おわりに
本レポートの冒頭でも述べたように、今までの私には特に目指す目標もなく、漫然とした生活を日々送ってきている。しかし、本レポートを製作するにあたって、取材をさせて頂いた山野井夫妻の姿は全く違った。一度は指を失って絶望的となった登山をあきらめずにもう一度挑戦し始め、わずか5年間で標高差1000メートル以上の岩壁が登れるようになった。それは、山野井夫妻が大きな目標のもとに一つ一つの小さな目標をクリアしていったから成し遂げることが出来たのだろう。そこには、困難な状況を恐れず切り開いていく姿勢やお金や記録のためでなく、何よりも自分がやりたいからやるという山野井夫妻の強い信念が感じられる。1時間ほどのインタビューではあったが、自分のこれからについて深く考えさせられる内容の濃い有意義な時間であった。
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インタビューに答える山野井泰史さん・妙子さん (NHK出版会議室) |
参考文献
【書籍】
NHK取材班著『白夜の大岩壁に挑む』(日本放送出版協会,2008年1月30日)
山野井泰史著『垂直の記憶』(山と渓谷社,2004年4月15日)
【資料】
山と渓谷(2006年3月号)