Pastime
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物 語『晴球雨読』
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多摩川を舞台に、野球を通して繰り広げられる自然と人生。
作・欅次郎
この物語は次の章立てになっています。
序 章 球聖 第一章 野川の湧き水 第二章 多摩川河川敷 第三章 球庵 第四章 奥多摩の山々 |
少し長いので、前半(活動の場)と後半(名の由来)に分けます。
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—— 朝顔や素振りの膝のやや重く ——
剣の人なら木剣を振るところ、究平にあってはバットである。起き抜けの体に動きは鈍い。節々はまだ覚めず、バットはなまくらな弧を描くばかり。それに較べて、朝顔の何とはつらつとしていることか。朝日を真横に受けて、今、赤紫の大輪が開ききったところ。しっとりと露気も帯びて、りんと張った輪郭には命のみなぎりを覚える。そのみずみずしい張りに見とれて、究平の体も次第に目覚め始める。
二振り、三振り、……、ゆるく鈍い音が次第に澄んできて、七振り、八振り、……。プンとバットが空を切り裂いたとき、究平は思わず振る手を止めた。空気の揺れが大輪を揺るがせたのである。危うく花びらの縁を切り裂くところであった。
花が無事であるのを確かめ、究平はかたわらの柿の木にバットを立てかけた。額にはうっすらと汗がにじんでいる。冷や汗である。ほっと息をもらして両手で顔をぬぐうと、究平は軽やかに膝の屈伸を始めた。ひやりとしたものの、バットの音がよかった。素振りの音が究平には体調のバロメータとなっている。膝の屈伸に続いて上体を前後左右に折り曲げ、反転もくるりと二度、三度、首を回し、肩をほぐして体操を終えた。いがぐり頭に衣装は作務衣、いや、今は夏の朝ゆえ甚平で、足には草履。年のころは四十半ば。矢川究平、五尺八寸、二十貫、——175センチメートル、70キロほどである。
朝日が射し込む五十坪ほどの庭には、地面にカボチャの黄色い花も見えてナスが実をふくらませ、竹組みの棒の先にはキュウリの葉が枯れ、その下のトマトは数が少なくなり始めている。軒先の藤棚にはヘチマがぶら下がり、ブドウが青い実をつけている。朝顔はその棚先から下ろした糸にからみついて大輪を輝かせているのである。改めて大輪の輝きを眺め、究平は腰のタオルを手にとって洗面に向かう。住まいの裏手に小川が流れ、向かいの雑木の崖との間に丸太が二本渡してある。流れの幅は四、五メートル。橋の先の崖下に花菖蒲の繁みがあって、そこから水が湧き出してタライほどの池に注いでいる。池にあふれた水は橋のたもとで小川に流れ落ちる。
—— とくとくと水湧き出でて花菖蒲 ——
究平は池の縁にしゃがんで両手で水をすくって口に含み、顔にも浴びせかけた。そこは洗面所であり、水浴場でもある。夏の夕暮れには、素っ裸になって水をかぶっている究平の姿が土手からも眺められる。夏の夕暮れといえば、そこは草野球人士の、試合後のビールやスイカを冷やしておく場所でもある。
心身ともに目覚めたところで、究平は河原に向かう。藤棚の下を通り、土手を登って究平は思わず「おっ」と声を上げた。前方に、夏には珍しく富士山が見える。黒い地肌をさらし、くっきりと上半身を見せている。昨夜の台風が雲をさらっていったとみえる。朝顔といい、富士といい、鮮やかさにすがすがしさはいや勝り、究平は両の手を頭上に組んで背伸びをし、爪先立ちでそのまま斜面を下りていった。
ここは国立、青柳ママ下。甲州街道が多摩川を渡る日野橋の下流1キロメートルほどのところ。下流の府中方面からさかのぼって中央高速道路をくぐると、土手の左手に河川敷が広がり、陸上競技場兼サッカー場と、それに続いて野球場が二つ並ぶ。その向こうはオギの原の中州で、日野橋の近くまで延びている。野球場を通り過ぎると、土手はほどなく段丘の崖に斜めにぶつかる。その下には通水トンネルが掘られ、多摩川の分水がしばらくは崖に沿って府中方面へと流れる。地面を掘り下げただけの江戸期の用水路で、コンクリートが使われていないので、自然の小川にも見える。
用水路と土手との間は三角状の畑地で、頂角寄りに大きなプレハブが建っている。東西に長い平屋で、土手から向かって左に玄関があり、戸口の上の掲額には「球庵」の文字が見える。これはこの辺り一帯の野球人、それも、草野球をこよなく愛する人たちの集会場である。試合後の一杯を酌み交わす場であり、野球談義の交わされる場である。野球をするのが好きというだけが共通の、あらゆる職種・階層の人が集まる。彼らはこのプレハブのオーナーでもある。究平のために、そして自分たちのために資金を出し合って建てたのである。
プレハブとはいえ、中の造りは柱に銘木が使われるなど、なかなか豪勢である。間口一間半×奥行二間の玄関はスノコを敷いた土間で、上がった所が板の間の簡単な調理場、その奥にトイレとシャワー室があり、それらの右に大広間がある。南北五間、東西十間の、文字どおり百畳敷きの大広間である。彼らはてんでに折りたたみの座卓を出してきて宴を張る。あちらでは勝利を祝い、こちらでは敗北の傷をなめ合う。時には選手と監督の間に罵声も飛び交う。まともな論議もアルコールが入れば次第に白熱する。
—— さんざめく夕立(ゆだち)の中の球談義 ——
大広間の奥の両端にはそれぞれ一間幅の押し入れ、その内側に、これもそれぞれ一間幅の床の間、そして中央に一間幅の板の間があり襖がある。それを開けると、究平の住まいになる。三畳ほどの板の間があり、左、つまり北側に四畳半と押し入れ、右に六畳間がある。板の間に出入り口があって畑へ、そして湧き水へと通じている。究平は住まいを提供されているわけだが、掲額に「庵」の文字が入っているのは、主のような究平が好んで作務衣を着るなど坊主めいていることによる。
富士を眺めながら下りる頭の上をコサギが追い越していった。土手から流れの岸までは百メートル余り。目の前のグラウンドは彼の仕事場の一つである。このような河川敷の球場で彼は審判を務め、これを生業(なりわい)としている。土曜、日曜が主な仕事日で、月曜日は理容業界、水曜日は不動産業界からというふうにも声がかかる。とはいえ、申し込みはさばき切れないのが実情である。申し込みのままに受けていると、夜明けから日暮れまでたちまちスケジュールがふさがって、休み時間も取れない。かつては、移動時間を忘れて受けてしまったこともあった。このため、やがて球庵に出入りの信用金庫の社員が審判料の徴収管理を兼ねてスケジュールの調整に当たるようになった。これほどに人気が高いのは、試合の仕切りのよさと、その前後に見せてくれる卓抜の技にある。
審判としての魅力の第一は、「集合!」と、”言うならばチェロの響き”の号令一下、迅速で的確な指示と判定によって、「試合が引き締まる」ことにある。たかが草野球、されど、草野球。スムーズな流れの中の緊迫感と集中力の持続は「こたえられない」ようだ。技については、例えば、「バッティングはインパクトだ」と言う。これを、試合後に時間が余れば実際に打って見せてくれる。右打席の内角球は左中間へ、外角球は右中間へ、いずれも糸を引くようなライナーで延びて行く。左打席においても同様、パシッと弾かれた打球は途中で一度加速し、ぐう〜んと延びて草むらに消える。これが五球、六球と続くと、見る者も胸のすく思いがし、土手の見物人からも拍手が起こる。
試合前にはノッカーになることも、時にはメンバーが足りないチームの助っ人になることもある。ノッカーとしては、外野手には全力で走って捕らえられるあたりにフライを打ち上げ、内野手には流れるような送球動作に移れるあたりにほどよい強さのゴロを転がす。その腕の見せどころはキャッチャーフライを打ち上げるときに極まる。「ホームベースの上に」といえば、十中八九はその上に、「ネット際に」といえば、そこに落ちる。助っ人として加わるときは、いわゆる大根切りで高いバウンドのゴロを打って一塁に駆け込んでみたり、外角球を打つと見せかけてバットをベースの上でピタリと止め、ボールを線上に転がす「スウィングバント」を見せてくれたりする。
この仕事を始めて七年余り。この地に行き合わせた折のひょんなことがきっかけだったが、このような仕切りと技によって、たちまち注文が舞い込み仕事場も広がっていった。現在、仕事場は国立、立川を中心に、上流は昭島、羽村、青梅へ、下流は府中、調布、世田谷から、羽田の近くにまで延びている。
技量もさることながら、人気のほどは「人物」にもよる。試合を取り仕切る包容力のような雰囲気が野球を離れても身辺に漂う。また、独特の生命論があり、技の一つ一つがそれに裏打ちされているかの観もある。それは人生へ、また、森羅万象へと広がる。話は具体的でありながら、神秘的でもある。究平の話に耳を傾ける者は、若者のみならず、お医者さんも大学の先生も神妙である。彼らによれば、生命論は次の三つの命題を柱とする。
○ 生命は一点々ぜられた火のごときものである。
○ 生命は無限に広がる。
○ 生命それ自体は、いわば盲目である。
これが子どもの教育や人生観に資するところも多いようで、話を聞きたいがために球庵に出入する親たちも多い。ある六十過ぎのお医者さんは「食養生のことになると、俺より詳しい」と感嘆する。また、話は「生命はいずこより来たりて、いずこに去るか」といったふうにも広がる。そのために、面々は奥多摩の山に出かけ、頂上に寝そべって宇宙に思いを馳せることもある。
—— 久々に舟を浮かべん天の川 ——
国立市青柳・「球庵」付近の河川敷
中州のオギの原からヒバリが舞い上がり、川の瀬からは川音にまじってセキレイの声も聞える。コサギはさっき向こう岸に舞い降りた。流れの幅は二十メートルほど。向こう岸は雑草のまま百メートルほどで土手になる。流れの緩い辺りではカイツブリが川面に首を突っ込んでえさをあさり、その下手では二羽のカルガモが、こちらは食い足りたのであろう、首をもたげて悠然と流されて行く。「今日はきれいだ」 究平は流れを見つめてつぶやく。
多摩川は羽村の取水堰を過ぎると水量が少なく濁り気味になるが、下水が垂れ流しであった経済の成長期に較べれば、清流が戻ってきているといってよい。このもっと下流の、世田谷から大田区にかけての流域では白い洗剤が漂い、堰では泡が絶え間なく風に舞っていたものだった。
川の浄化については、球庵のメンバーが一役買ってもいる。川の惨状は球庵でも話題になる。メンバーには市役所の職員や議員、都や国の土木事務所の職員などもいるから、究平が一言嘆いてメンバーの話題になれば、それが切実な声として彼らを動かす。流域のあちこちで下水処理場の建設が促進された裏にはこのような声もあった。面々は、河川敷のクリーン運動には、もちろん、試合を中断してでも参加する。
それはともかく、究平にとって多摩川は、今では源流から河口まで、すっかり生活圏となっている。仕事場であり、憩いの場であり、時には探求の場ともなる。水が思いのほか澄んでいることに慰められる思いで、究平は流れを後にした。
「おはようございまあっす」 引き返しかけるとすぐに、声がかかった。ユニホーム姿の若者がライトポールの所に立っている。ライン引きの手を休め、帽子を取って丁寧にお辞儀をする。「やあ、おはよう。早いねえ」「新人ですから」 この若者とは彼が小学生のときからの知り合いである。名を卓也という。彼は現在、多摩早朝野球連盟の「ヤマト」のルーキーとして売り出し中である。流れるような球さばきと糸を引くようなライナーによって、早朝でも土手に観客の並ぶことが多い。もし、究平に弟子なり教え子なりがいるといってよければ、卓也たちは第一期生である。彼らは母胎ともいうべき集まりを「原っぱ野球」とも、「草野球塾」とも呼んでおり、それは「立川サイクルズ」というチームに引き継がれている。究平によれば、退屈しのぎに遊んでいたに過ぎないのだが、卓也たちはいっしょに遊ぶ中から育っていったのである。
当時、彼は立川の富士見町に仮寓していた。仮寓とはいっても、定住したことはないから、現在に較べれば、というにすぎないが、とにかく起居する場所は立川にあった。日野橋の上流一キロ余りの所にJR中央線の鉄橋がある。下り列車が立川を出て二、三分もすると、そこにさしかかり、両側には緑の河川敷が広がる。左の下流域には四面の野球場とそれと同程度の緑地があり、上流域にはそれに倍する原っぱが延びる。その原っぱの土手の外側が富士見町である。この地に行き合わせた最初のころ、彼は富士見町の建設会社の倉庫の一隅で起居していた。
早々に仕事が舞い込むようになったとはいえ、土・日を除いてはほとんど暇だった。そこで、河川敷の林の下草を取り除いて菜園作りをしたり、雨の日は近所の郷土博物館や市の図書館で多摩や多摩川に関する資料をあさるなどしていた。文字どおり、「晴耕雨読」の日々である。ちなみに、その辺りのハリエンジュの林の中で、今でも小さなトマトやブドウのツルが見られるのは当時の名残である。
菜園作りとはいっても、種を播いてしまえば当分はすることがない。川の中州の雑草林を探険したり、一帯の湧水池を探索したりするほかは、土手に座ってぼんやりしていることがよくあった。午後も四時ごろになると、原っぱに子どもたちが集まり始める。近所に小学校があり、運動場があるのだが、子供たちには原っぱのほうがよいようだ。野球、サッカー、縄跳び、サイクリング、犬の散歩に、かけっこ、……等々、子供たちはてんでに原っぱを駆けまわっている。「……、遊ぶ子どもの声聞けば、わが身さえこそゆるがるれ」 土手に座って眺めていると、そんな平安歌謡のような気分にもなり、体がうずうずしてきて土手を下りていった。駆けている途中、たまたまフライが飛んできた。ボールをいったんおでこに当てて捕ってみせると、これがうけた。たちまち子供たちに取り囲まれて、仲間に迎え入れられた。
原っぱでの野球はもっぱらゲームである。練習などはしない。十人も集まれば、すぐに二つのチームに分かれて試合が始まる。最初は三角ベースで、人数が多くなれば「打つのは全員、守るのは九人、交代は自由」となる。極めて合理的なルールである。これなら、やって来た子どもは外されることがなく、だれもが野球を楽しめる。究平はさっそくスウィングバントをしたり、背面キャッチをするなどして子供たちを喜ばせた。翌日にはさっそく土手に観客が現れた。噂を聞いた子供たちである。原っぱは次第に活気づく。
一週間もたたないうちに、土手には母親が混じり始めた。「学校から帰ると、おやつも食べないで飛び出していくのよ」「うちも、そうなの」 子供たちの黄色い掛け声に交じって、究平の声が、”チェロの響き”となって草原を走る。「たたけぇ〜、たたくんだ、ボールを、引っぱたけぇ〜」 スウィングの弱い子がいると、思わずハッパをかける。やるからには快感を味わってほしいと思う。それは、打って走るときやボールを追いかけるときにも同じだった。「走れ〜、走れ〜」と叫ぶ。それは全力を出して初めて快感が味わえると思うからだ。守備では「相手の胸を目がけて投げろ〜」と言う。野手の快感は仕留めることにあると思うからだ。必然、自らも全力で打ち、走り、捕り、投げる。手加減はしたが、手抜きはしなかった。実際は自分も楽しんでいたのである。そんな中で子どもたちが目を見張り、最も喜んだのは右中間・左中間を抜くライナーであり、矢のような送球であった。真似が初日から始まっていたのは言うまでもない。
「ご飯をたくさんたべるようになったの」「うちは毎晩庭でバットを振っているわ」「何か分からないけど、うれしそうなのよね」と、やがてこんな声が土手の上で聞かれるようになったころ、子供たちは仲間内だけの試合だけでは物足りなくなった。小手試しもしてみたくなったのである。すぐさまチーム結成の話が起こり、親たちの会合がもたれた。当然、究平が招かれた。まずは監督への就任要請である。ところが、子供たちが大会に出るとすれば、日曜日は究平の仕事日でもあったから、これは無理であった。さりとて、余人をもっては代えがたい。究平の代わりとあっては誰もが尻込みをする。そこで、監督なしで、子供たちの判断でやらせてみることになった。
それで、よかった。連戦連勝で、市内の大会はもとより、近隣の地区大会でも優勝してくるようになった。そうなると、監督がいないのにあのチームはなぜ強いのか、その秘密を知ろうと、対戦相手の監督やコーチが土手の上に現れるようになった。秘密と言うなら秘密は、生きた手本があったからということなのだが、「サイクルズ」の選手の強さのもとは、スピーディーでありながらバランスが崩れない、その動きにあったといえる。球庵の談義では、この動きは「平衡移動」と呼ばれる。例えば、「バッティングはインパクトだ」とはいうものの、バッティングにはそこまでに体重の移動、腰の回転、手首の返しなどの一連の動作がある。その動作の基本は重心を低く保つことである。これは、守備においては「カニの横ばい」となる。子供たちはこの「平衡移動」の姿を、投げる・捕る・打つ・走るの全ての面で、真似をしているうちに身につけていたのである。
なお、「サイクルズ」というチーム名は究平の走る姿からの命名である。立川の市営球場から府中の「郷土の森グラウンド」へ、あるいは、昭島の「くじら運動公園」へ、土手の上を小走りに駆けて行く姿は、上下の揺れがなく、足がさながら一輪車が回っているように見える。もしも手前に塀でもあって頭だけが見えているなら、人は自転車に乗って走っていると思うに違いない。これも「平衡移動」の現れであるが、この命名は子供たちの誇りであった。一輪車であるから、bicycle
ではなく、cycle である。試合ではいくつもの一輪車(cycles)がグラウンドを縦横に駆けまわるのである。
試合が終わると、子どもたちは結果の報告にやってくる。究平は試合の経過に耳を傾ける。土手の上では改めて歓声が上がり、ひとしきり話に花が咲く。親たちがそこに見るのは限りないほほえましさと、子どもたちに対する究平の愛情だった。それが生命に対する愛情であることを理解するまでにはまだ時日を要したが、優勝のお祝いだ、お礼だといって、今日はA宅、次はB宅というふうに招いて話を聞いているうちに、究平の言動には何か奥深さがあると感じるようになった。
例えば、「引っぱたけ〜」というハッパについてである。にぎやかに声をかけているとしか思っていなかったのだが、ハッパをかけられた子の親が礼を言ったとき、「思いきり振ることが大事なんだが、繰り返し振っていれば、スウィングがよくなり芯に当たるようにもなる。まぐれにせよ、一度いい当たりを飛ばせば、当人はそこに己の可能性を見る。『出してみて初めて分かる己の力』」と、そんな言い方をするのを聞いて、居並ぶ親は「あっ」と声を上げかけたものだった。これは教育である。
教育といえば、親たちがやんわり注意されることもあった。「子どもというのは大いに伸びようとしている。その推進力は生命なのだが、これは、放っておくとどこへいってしまうか分からない。適当な先導が要る。あるいは、手本だ。これを思うと、一番身近にいるのは親だ。子は親の背中を見て育つというのは、そのとおりだろう、いいかな」と、大脳のことなどを交えて、そんな話もした。「生命は、いわば盲目…」のくだりである。母親たちは顔を赤らめて肩をすぼめたものだったが、日ごろの何とはなしの疑問が解け、素直に姿勢を改める気にもなった。
親たちの目に究平は、いわばスーパーマンである。その技は神のようであり、心は仏のようである。作務衣姿の風采からすれば聖(ひじり)であり、言動をもってすれば聖人である。日暮れまで子供といっしょにボールを追いかけている姿を見て、究平を「今良寛」と呼ぶ人もいたが、野球のできる聖人ということで、やがて究平は「球聖」と呼ばれるようになった。「きゅうへい」ならぬ「きゅうせい」である。それは、「きゅうへいさん」と軽々に、あるいは、なれなれしくは呼びにくかったせいでもある。あがめられるほど高みに置かれたわけではないが、その球聖の技を見、話を聞こうと、土手には敵味方を問わず、ますます多くの人が集まるようになった。監督やコーチたちなら見て分かったであろうことを、母親たちはいろいろ聞きたがる。とはいえ、秋が深まると、日暮れの土手は寒い。かといって、個人宅では人が入りきれない。球庵の建設が促進された裏にはこんな事情もあった。
「おうい」。遠くから呼ぶ声がする。土手の上を手を振りながら駆けてくるのは、「ヤマト」の監督・山本貫太郎、通称「ヤマカン」である。「後で応援に行きますからねぇ〜」。互いに近づくのを待って言えばよいのだが、気が急くと見える。「ありがとう〜」。今日は究平が年に一回だけ公式戦に出場する日である。多摩大会の決勝トーナメントの一回戦が八王子グリーンスタジアムで行われる。究平は住地の「国立ユニバース」から、三番・センターで出場する。相手は「羽村ダイボサツ」。ここには佐々木重蔵という豪速球投手がいる。土手を登りながら、究平はもう一度背伸びをする。空は青々と晴れ渡り、究平の目には重蔵の速球が一瞬白い筋となって浮かんだ。「それにしても、あの朝顔はきれいだった」
昭和が平成に変わるころのことである。物語はそれからさらに七、八年さかのぼる。
(「序章」完)
立川市富士見町付近の河川敷