早稲田大学・大隈講堂

ドキュメンタリー

早稲田の杜へ

        小論文演習
        はじめに
   第1回 「アジアの熱い岸辺」
   第2回 「国名の付いた文化」
   第3回 「地についた生活」
   第4回 「名を記録する行為」
   第5回 「民族の統合と分裂」

          「大学入試対策」へ    「案内所」の扉へ    「トピックス」へ 

「作文打出の小づち」
総もくじ
作文編  国語編  小論文編  閑 話 


 はじめに

 「早稲田の第一文に対応した指導をしている所が近くにないので困っています」というメールが届いた。
静岡のミキちゃんからである。12月の半ば頃だった。

 試しに1回受けてみたいというので、過去問の中から二種類を送る。
一つは文章題で、もう一つは「逆さまの世界地図について、考えを自由に述べよ」というものである。
 彼女は文章題を選ぶ。答案の送受はファクスによって行う。


第1回 「アジアの熱い岸辺」

  タイトルは各回とも、当方で任意に付けたものである。

課題文 と 設問
 太陽が照ると日一日と畑の小麦が黄金の色になる。そんな美しい季節になったね。北海道の夏はどうですか。短い夏だからこそ、一瞬一瞬の時がいとおしくなる。蒸し焼きになるような東京にいて、ふと北海道のことを思った。気象庁発表の最高気温が、37度とか38度になる。そんな数字に慣れてしまったようだが、私が大学生の君ぐらいの年には考えられないことだった。夏休みになる前の一週間ぐらい、気温が30度を超えると小学校や中学校の午後の授業が休みになったものだよ。体温よりも高い気温になると、生物生態的にもなんらかの影響があるのじゃないだろうか。どうも地球全体が急速に熱くなっているようだ。
 熱いといえば、アジアの岸辺を旅行してきたよ。東アジアの沿岸諸国、具体的に言えば、まず東京から北京に飛び、長距離列車に乗って平壌にいき、北京経由で上海まで飛んだ。それから広州、ホーチミン、ハノイとまわって、香港で乗り換えて東京に戻ってきた。アジアの変化をこの目で見たかったのだ。ここに韓国も加えればよかったのかもしれないが、そうすればタイやマレーシアやシンガポールも、それから台湾にも行かなければならないだろう。それぞれ個別には行っているが、今回はアジアの岸辺の中心の中国から見て両隣ということにした。すなわち、北朝鮮とベトナムである。
 中国には数限りなく行っているし、ベトナムにはこれで三度目だ。北朝鮮は初めてで、近くて世界で最も遠い国には興味があった。報道で伝えられてくるものは、情報としてはともかく、肌ざわりが感じられない。そこにはどんな空気が流れているか闇の濃さはどのくらいであるかと、物書きには実感が大切だ。実感ばかりに頼って歴史の大きな流れを見落としがちになるという欠点は充分にわかっているつもりで、小さな真実のようなものを拾い集める旅をしてきた。駆け足で通り過ぎていく旅人にはそれしかできないからなのだが、旅というのは表層を軽やかに浮遊するというようなものだろう。旅の快感に身をひたすということなのかもしれない。それが昔から私がとってきた方法なのだよ。
 君の年令よりもう少し若いぐらいの時から、私はリュックを担ぎゴムゾウリをはいて、アジアの大地をぎらぎらと巡ってきた。最初に踏みしめたのは下関から船に乗ってたどりついた釜山で、次は横浜から留学生船と呼ばれるフランス郵船の貨客船に乗って上陸した香港とバンコクだった。バンコクからプノンペンに飛んだのが、生まれてはじめて乗った飛行機だったよ。
 あの頃、せいぜい遠くまで行ったといえるのが、インドだった。結果的にアジアにこだわってきたといえるのだが、その理由は安く行けるということからだ。運賃も近いから安いし、食う寝るも安くすんだ。安くて心が充たされるというのが、当時の私の方向感覚であった。もちろん今もそれはたいして代わっているとはいえない。
 あの頃のアジアには、変わらないことへの安らぎというようなものがあった。悠久の時に充足してたゆたっているような感覚があり、高度成長期に入り経済活動に邁進しはじめた国からやってきた若者には、なくなってしまった過去を訪ねるような趣があったよ。ソウルやバンコクの路地から、子供の私が駆けてくるような雰囲気があったのだ。
 今、アジアの国々はそれぞれの道を歩いている。当時、先頭を全力疾走していた日本は少しくたびれ、未知の世界を前に立ち暮れているような風情である。一方、北朝鮮以外の国々は歩調を合わせ、同じ方向に向かって走り出した。それは日本が走ってきたのと同じような道で、その功罪を知っている私は一定の危惧を禁じ得ないのである。あんまり速く走るとまわりの風景も見えないし、疲れて余裕もなくなってしまう。それに、物質的な満足など、人の喜びのほんの一部なのだ。衣食の足りている者の言う言葉だという言い方もあるが、今私たちの国をおおっている虚ろさを彼らにどう伝えたらいいのだろう。
 君たちはこれからどのように生きようとしているのかと考えると、私は暗澹としてくる。私は暗澹のリュックを担ぎ、アジアの大地を一歩また一歩と暗澹として歩を運んでいたといえる。これからは君たちの時代なのだが、アジアの人たちと暗澹たる気分を分け合っていくよりしようがないのではないかと思う。これから無限に希望のある時代とはとても言いがたいのだ。
 中国雲南省のシーサンパンナに、私は二度行った。最初の時、山岳地帯で焼畑農業をする少数民族に、私はつまらない質問をしたことがある。
 「海を見たことがありますか」
 もちろん即座に否定された。解答を予期していたわかりきった質問だったのだ。島国の日本でも、百年前を考えれば、海を見ないで生涯を終えた人はたくさんいたはずだ。世界は交通の発達などで急速に縮んでいて、ごく近い将来シーサンパンナでも海辺まで旅行するのが当たり前になるだろう。
 常春のシーサンパンナや、中国内陸部の砂漠地帯に行ってみて、走っていく方向が海に面した地方とはどんどん違っていることに、私は危惧を感じる。もし走る方向が同じなら、距離が開きすぎている。これは矛盾の裂け目である。
 いずれ私は「アジアの岸辺」と題した旅行記を書くつもりだが、君にもアジアを歩きまわることをすすめる。私がそうしてきたからというのではもちろんなく、もしかすると君たちがこれまであまり感じることがなくここまできた熱度というものが、アジアの岸辺にはあるからだ。時には悪い病による熱というのもあるだろう。冷めた迷宮のような国もあった。相変わらずアジアは混沌としているともいえる。
 温暖化している地球で、ことにアジアは熱い場所だ。将来の地球の運命を決める場所といってもよいかもしれない。若い君に、いまだ固まらない熱い岸辺を歩くことを、、私はすすめたい。


 これはある父親が大学生のわが子に宛てた手紙です。その子に代わって、この手紙に答えるかたちで返信を書いてください。(解答文中に自分の氏名を書いてはならない)
 解答文は600字以上1000字以内で書きなさい。ただし、句読点および段落のために生じる余白も字数に含みます。〔90分〕

 出題年度:’96 / 出典:立松和平『息子への手紙』

答案 と 添削例・諸注意
 先日は手紙をありがとう。ここ北海道にも暑い季節
がやってきたよ。空には青空が広がりさわやかな風が
吹く穏やかな日々が続いている。
 父さんの手紙を読んで、僕もアジアの熱さを体感して
みたくなったよ。父さんの言う通り、これからのアジア
は、将来の地球で鍵を握る重要な場所となるだろう。
現に今、急速に経済発展をし、ヨーロッパにとっては、
新たな巨大市場となってきている。だが、父さんの危
惧しているように、今のアジアはかつての日本と同じ
ような道で発展を遂げようとしている。ただひたすら生
産と利益の向上を目指し、守るべき価値ある伝統や
文化を省みず、人間にとって最も重要である豊かな心
までも失わせてしまう道で。
 今の日本は虚ろさに覆われている、と父さんは書い
ているね。その虚ろさは、一体どこから生まれてくるの
だろう。物質的には豊かで何一つ不自由しない社会、
しかし、そこで生きる人々の心にはぽっかりと穴が空
いている。僕には、そのぽっかりと空いた穴から、虚ろ
さが無限に吹き出してきているように思える。何故人
々の心に穴が空いてしまったのだろう。一体何が人々
の心から抜け落ちてしまったのか。今朝、太陽の光を
浴びて生き生きとしている草花や木々を見て気づい
た。太陽の熱の中でたくましく生きている生命の、命
の熱さ。人々はその「命の熱」を失ってしまったの
ではないだろうか。
 もし、アジアがこのまま日本と同じような発展を遂げ
たとしたら、アジアはその熱さを失うことになるだろう。
アジアが熱いのは、気候のことだけでなく、そこに息づ
く生命の脈動が大陸全体を覆っているからだと思う。
草花や木々と同じように、人々もまた「命の熱」を持ち
続けている。それは何故か。「命の熱」を人々の心に
わき上がらせるものを、アジアがまだ失っていないか
らだ。アジアが持ち続けていて、日本が失ってもの、そ
れは混沌だ。ハッキリせず、色々なものが入り乱れて
いる中に、何か底知れないエネルギーが隠されている
気がする。
 父さん、父さんが勧めてくれたように、僕はアジアの
まだ固まらない熱い岸辺を歩いてみたいと思う。そし
て、変革期にあるアジアでまだ失われていない「命の
熱さ」にあたることで、失われたかつての日本の熱さ
を肌で感じ取ってきたい。
                  (以上、約1000字)

← でもね、空は抜けるよう
に青く、さわやかな風が吹
いている。








※ 「…しまう方法で。」とするか、「「…しまう道を歩んでいるのだ。」とでもする。



← 噴き出して




← 命の熱さに。









※ 「混沌」と見る目が秀逸。

 答案には赤ペンを入れ、これに講評(B4紙)を添えて返送する。
講評には得点とランクを付記する。

講評、評価・採点
一、内容と構成

 実にすらすらと、かつ、おもしろく読める。素晴らしい「返事」になっている。

 答案を、①内容面と、②形式面から見ると、大きくは
 ① 返事の趣旨が「命の熱」で貫かれていること、
 ② 課題文の趣旨を踏まえて考えを述べる、という基本の形が整っていること、
この二つが優れた点として挙げられる。

 ①については特に、「命の熱さ」の説き起こし方がよい。(第三段落、8〜10行目)
 これあるがゆえに、父に対する答え(対応)も、自らの願望も納得できるものとなっている。卓抜!
 ②については、これに「一つ一つの考えに裏付けのあること」が付け加えられる。例えば、
 ・ 第二段落の3行目、「重要な場所」と、それ以下の部分。
 ・ 第三段落の5行目、「ぽっかりと空いた穴」と、それ以下の部分。
 ・ 第四段落の9行目、「混沌」、……
 書き方の基本として当然のことなのだが、ここで特にこれを採り上げるのは、多くの答案が「考え」を述べるに急なあまり、理屈に陥り、また、課題文から離れてしまっていることによる。

二、 表記と表現

 誤字・脱字はない。送りがな・かなづかいの間違いもない。
 出だしの2行目、「空には青空が……」という表現に注意したい。「馬に乗馬する」という類いの表現は tautology (同語反復)といって、好ましくないとされる。

◎ 得点ー90、 ランクーA

 得点とランクは一応の目安とするためのものである。
得点は100点満点。ランクは85点以上がAで、以下15点刻みでB,C,Dとし、40点未満をEとしている。

 暮れ近くになって、あと4回くらい練習したいというメールが入った。
これには第1回分について、「初回なので甘くして頂いた感じですが……」とあった。
「いや、そうではない」と、すぐに答える。難関であるが故に、その感はいっそう強い。

 「もしも甘くして、それが合格答案だと本人が思い込んで試験に臨めば、
悲惨な結果を招くことになりかねない。添削に当たっては最初から正当な評価をして、
よく書けていればよしとし、ダメな場合は程度に応じて努力してもらわなければならない」。
答案用紙等を送る際に、これらのことを書き添える。

そして、「この答案がどのくらい優れたものであるかは、
結果として〔gallery 作品展示場〕に登場を願う頃に分かるのかもしれない」と付け加えた。
仮にほめすぎであるとしても、実力なりの自信はもってもらわなければならない。

 年末年始の都合も聞いていたので、三が日がいちばん暇だと答えておいたのだが、
2回目の答案が届いたのは1月も末のころであった。
センター試験の準備や他大学の受験に時間を取られていたようだった。

 なお、課題文は過去問の中から自分で選ばせてほしいと、これはあらかじめ言ってきてあった。
 

もどる


第2回 「国名の付いた文化」

 課題文はかなり長い。400字詰めの原稿用紙に換算して9枚分くらいある。

設問 と 課題文
 次の文章を読んで、著者のいう「国名を付した文化の虚構性」について、あなたの考えるところを述べなさい。

 文化の定義は、人類学の側からの定義にせよ、哲学、あるいは社会学の側からの定義にせよ、その文化を維持する一定の大きさの集団を前提としている。
 ところで、われわれは日常的に、日本文化、イギリス文化、フランス文化、ドイツ文化、等々、文化と国名を無反省に結びつけて使っている。これは文化の単位を政治的な国境で区切ることを意味するが、そのような文化の単位のとり方は、はたして正しいのであろうか。
 これは長年の私の疑問であった。すでに十数年も昔のことであるが、ある百科事典の「フランス文化」の項目の執筆を引き受けて大いに悩んだことがあった。三年ほども考えた末に私の得た結論は「フランスにはさまざまな文化があるが、<フランス文化>は存在しない」ということになったからである。さいわい、それも面白いかもしれませんね、と言ってくれた寛大な編集者のおかげで、私は自分の考えをそれほどゆがめずに書くことができたのであるが、「フランス文化」の項目としては何とも奇妙な文章になってしまった。以下の引用はその項目の冒頭の部分である。

      文  化
 〔「フランス文化」への疑い〕 フランスは世界の国々のなかでもとりわけその文化によって注目される国であり、またフランス人の間でも自国の文化を誇りたいせつにする気風が強いことは確かであろう。フランスの社会では伝統的に文化に大きな役割と高い価値が与えられており、そのことは国家のレベルにおいても当てはまる。文化省が設立されたのはたかだか二十数年前(一九五九年)にすぎないが、フランスに国家らしきものが成立して以来、つねに有形無形の「文化政策」が存在していた。こうしてフランスが文化の国であり、フランス文化が優れた文化であることは、パリを中心としたいわゆる高級な文化(ハイ・カルチュア)を問題にする限り、一見、自明なことのように思われる。だがそれは、はたしてフランスの文化なのであろうか。また文化の定義を個々人の生活様式に深くかかわるものとして考えるとき、そもそも「フランス文化」なるものは存在しうるのであろうか。これまでフランス文化の存在が自明のこととして論じられることが多かっただけに、われわれはそれを疑うことから出発してみよう。
 実際、一つの文化の単位を国境によって区切ることが可能であろうか。パリの文化はフランスのブルターニュ地方やマッシフ・サントラル地方の農民の文化よりも、むしろロンドンやニューヨークの文化に近いし、同じパリであっても知識人の生活と労働者の生活の違いは大きい。しかもパリ在住の知識人にしても労働者にしても、かなり大きな部分を外国人や移民が占めており、それらの異質な要素を排除すれば、フランスの社会そのものが崩壊するだろう。都市と農村の文化的差異は別としても、フランスの地方にはパリと異なったさまざまな異質な文化が存在している。フランスは人種のるつぼであって、特定の人種の特徴からフランス文化を論じることはできない。フランス語は一つの目安となるだろう。だが、十九世紀のなかばころには、まだフランスの地方の住民の半数はそれぞれの方言を用いていて、いわゆるフランス語を使えなかったことを忘れてはならないだろう。それにこの場合、海外諸県やカナダ、スイス、ベルギーあるいはアフリカにおけるフランス語圏の文化との関係をどのように考えればよいのであろうか。たとえばカナダのケベック州の文化は、フランス語を話す住民による文化の、フランスとは異なったもう一つの可能性を示している。
 こうして単一不可分の共和国に見合った単一不可分の均質な「フランス文化」の存在は一種の神話であり、中央集権的なイデオロギーの生み出した一つの幻想にすぎないのではないかという疑いが強くなる。だがここで注意すべきは、かりにそれが幻想にすぎないとしても、そのような幻想自体もまたすでにフランス的な文化の特徴的な一側面をなしているということである。現在フランスとよばれている国の文化の特徴を観察するためには、文化を変化の相のもとにとらえて、その多様性と普遍性に注目しつつ、対立と葛藤、そして局地的な均衡と調和を繰り返しながら形成されつつあるダイナミックな文化のモデルを考える必要があるだろう。以下そのような文化モデルを思い描いた場合に、重要だと思われる特徴を要約的に記しておこう。

 この当時、私はまだ文明と文化についての考えを深めることができていないので、幸か不幸か論旨は明快になっているが、いまもし同じ項目について書くとしたら、フランスには「文明」があって「文化」はない、という、また別のテーゼがここに入ってきて、話は混乱するかもしれない。だがここに書かれてあることは基本的には正しいのではないかと、私は今では次第に確信を強めている。細部についての違いは多いが、同じ観点からヨーロッパ各国の国民文化についての疑いを書くことができるだろう。アメリカやカナダのような新世界の多民族国家にかんしては事情は非常に異なっているが、国名を付した文化の虚構性にかんしてはもっとはっきりした結論がでるかもしれない。アフリカやアジアの諸国、とりわけわが日本文化についてはどうであろうか。そこで私は「日本文化は存在するだろうか」とときどき自問する。あるいは知人に質問してみる。なかには用心深く笑って答えない人もいるが、「何を馬鹿な質問を、在るにきまっているのじゃないか」と考えている人が大部分である。
 自明とみなされているものこそ疑ってみようというのが私の主義だから、数年前から担当することになった「比較文化論」の授業でも、同じ質問を出してみた。たにも五つほどの設問が用意されていて、そのうちの一つを選んで論じなさい、という論文形式の試験なのであるが、950人ほどの受講生の半数以上がこの問題を選んで書いている。読んでみるといずれもなかなかの」熱論である。最近、学生たちのあいだに日本文化論に対する関心が年々高まっていることは知っていたが、興味深いのはこのテーマを選んだ学生の大部分が、まるで自分自身の存在理由を疑われ彼らの誇りを傷つけられたかのように、懸命に時にはきわめて激しい調子で日本文化を弁護し、日本文化の存在を証明しようとしていることだ。これに対して日本文化の存在に疑問をもつもの、あるいは否定的な判断を下した解答はきわめて少なく、全体の一割にも満たない。
 どちらの立論にも共通しているのは、日本文化が古代中世は中国ー朝鮮文化の、近代以後は西洋文化の圧倒的な影響下にあった、といわれることに対するこだわりである。日本文化の存在を肯定し強調する主張の多くは、たしかにそのような外国文化の影響は大きかったが、しかしその影響下で日本は独自な文化を創出しえた、例えば、仮名や短詩形文学、源氏物語、茶道や桂離宮、……というような形をとる。日本文化の存在を否定する少数派は、そのように日本的と言われているものの多くが実は外来のものであることを指摘して「日本的なもの」の欺瞞を証明しようとする。そしてその中のごく例外的な数名の学生が、文化とは結局、個人の生き方の問題なのだから、「日本」などは私と無関係であることを主張する。最近増えてきた留学生たちの反応はやはり日本人の学生とは異なっている。日本文化不在論のもっとも強硬な主張者の一人はオーストラリアから来ている女子学生であったが、これは多民族国家オーストラリアの立場から考えるというよりは、現在ヨーロッパやアメリカに根強い、日本文化模倣者説の信奉者であったようだ。これに対してむしろ韓国や台湾の留学生のほうが、日本文化の存在を認めるほうに傾いているが、それは日本文化の独自性を認めるというよりも、中国や朝鮮の文化の存在を無前提に認める以上、日本文化の存在も認めざるをえない、といったタイプの論じ方である。
 日本文化の存在を肯定する多数派の学生にとって、最大の関心事は自己を日本文化にいかに同一化させるか、ということにあるようだが、しかし彼らの日本文化のイメージは概して出来合いのパターン化されたものであって実質は貧しい。他方、少数派の学生の文章は、個性的で独創的な見方があるのだが、概して説得力に欠けている。だがいずれにせよ、「日本文化」という言葉が学生たちに強く訴えかける力をもったイデオロギー的言葉であることは確かだろう。
 国家は文化の単位として適切であろうか、という設問は、どうやら若者たちの眠れるナショナリズムを目覚めさせてしまったらしい。「フランス文化」は存在しないのではないか、という議論には大した関心を示さなかった学生も、「日本文化」の存在が疑われるとなると過敏といってもよいほどの反応を示す。「日本文化は存在するか」という設問には、どこか聖域を犯す冒涜の響きが感じとられるのであろう。比較文化論の一番の難点はおそらくここにある。それはいつの間にかナショナリズムを引き込んでしまう。国家の問題にかかわらない場合でも、ある個人や集団のアイデンティティの問題がかかわってきて議論がいつの間にか感情的イデオロギー的な調子をおびてしまう。文化論とは究極的には価値の問題を扱うのだから、これはある意味では当然なことだろう。だがここで興味深いのは、われわれ個人の好みの問題にかんしては、さほど熱心に争わないのに、問題が宗派や国家間のことになると熱狂して時には流血の惨事をひきおこすということだ。比較文化論はこの事実を冷静に正視するところから始めるべきだろう。

 解答文は所定の解答用紙に600字以上1000字以内で書きなさい。ただし句読点および段落のために生じる余白も字数に含みます。

 出題年度:’97 / 出典:西川長夫『国境の越え方ー比較文化論序説』

答案 と 添削例・諸注意
 東北地方の人々の生活を紹介した番組を見て非常に驚いたことがある。同じ国とは思えないほど、私の住んでいる地方と異なった風習がたくさんあったからだ。文化の一要素である言語をとってみても、同じ日本語を使っているとはいえ、地方によって様々な方言が存在する。文化を個人のアイデンティティに関わるものと考えれば、個人の生活に密着した、土着の風習や伝統こそ、真に文化であるといえるだろう。
 では、何故文化に国名を付すということが行われてきたのだろうか。筆者の指摘するように、日本文化の代表として挙げられる、古典や伝統芸能等は出来合いのパターン化されたイメージでしかなく、個人の生活の中にその実質はほとんど無い。この実態をみれば、国名を付した文化の虚構性はもはや自明のことである。それにも関わらず、その虚構性を指摘されて過敏なまでに反応し、日本文化の存在を主張するものが多いのは、個人のアイデンティティと集団のアイデンティティとが表裏一体であることを暗示している。
 私達は個人のアイデンティティを持つと同時に、社会において他者と自分との関係の中にもアイデンティティを確立する。例えば学校においては、自分は生徒であり、自分を指導してくれる人は先生であるというふうにだ。これが集団のアイデンティティである。常に自分以外の存在と関わって生きていく以上、自分という個人のアイデンティティを保つためには集団のアイデンティティが必要不可欠なのだ。日本文化の虚構性を論じることが聖域を犯すように聞こえるのも、虚構性を必死で否定しようとするのも、日本という国の民であるという集団のアイデンティティを失うことで、自分という個人のアイデンティティまでもが失われてしまうことを無意識のうちに危惧しているからだろう。
 国名を付した文化は、明らかに虚構ある。しかし、自分達の国民としての集団のアイデンティティを、しいては自分という個人のアイデンティティを守ろうとする無意識的な意志が、虚構である国名を付した文化を概念として存在させているのである。
            (以上、約900字)
※ 第一段落、8行目の「文化を個人……に関わるもの」のところ。
  文化→ culture →教養、とでも考えるなら、文化は個人的なものといえる。
  また、10行目の「土着の風習や伝統」のところ。community といった類いの、共同の目的をもった集団を前提に、これらをその集団によってcultivateされたものと考えるなら、これらは「真の文化である」と言える。
  ただし、これらのことを理解するのに、identity という概念は必要としない。むしろ、邪魔と考えられるが、どうだろうか。
  ここでは、最初の1〜7行目の事例がよいので、これを生かすようにしたい。「講評」参照。

※ 第二段落、1〜2行目「何故〜だろうか」のところ。
  これについての答えは何処にあるのか。それがないと、8行目の「自明のことである」は言えない。
  それが、その間の2〜7行目にあるとすれば、これは、いわば仲間内の説であるから、「自明の理」の論拠にはならない。この立場に立つなら、「自明の理」を一から証明しなければならない。
  同、12行目、「集団のアイデンティティ」についても注意を要する。末尾の欄外、「♯」を参照。

※ 第三段落、4行目以下、「学校」という「集団のアイデンティティ」については、論拠に乏しい。下記の欄外の注記」参照。

  同、8〜9行目。集団に依拠しなければならないとすれば、identity とは一体何なのか。同じく欄外の注記参照。

  同、14行目、「日本という国の国民」に、果たしてアイデンティティなどはあるのかどうか、後注参照。
 
 ♯ 集団には果たして、アイデンティティなるものがあるのかどうか。
   共同体(目的をもった集団)にはあると考えられるが(例えば、永世中立国としてのスイス)、学校のような、いわば寄り合い世帯にあるとは考えにくい。
   そもそも、アイデンティティというのは何なのか、その辺りから整理してかかる必要がありそうだ。

 一転、難解な答案、ないし、問題の多い答案となってしまった。

講 評
一、内容と構成

 出だしの東北地方についての事例はよいが、その後が分かりにくいものになっている。論理性がなく、したがって、説得力もない。評価を下せば、Dである。その理由相当のことは答案に書いてあるので、そちらを参照されたい。
 分かりにくいものになっている大元は「アイデンティティ」という概念を入れたことによる。もし何らかの概念によって筋道をつけるなら、課題文は「文化」について述べているのであるから、「カルチャー」が望ましい。

 ◎ 「文章を読んで考えを書く」という問題の」場合、次のように構成すると、書きやすく、的を外すことも少ない。
   第一段落 − 課題文の大意、要旨
   第二段落 − 課題文に関連する事例(体験、見聞)
   第三段落 − 事例の検討・考察、課題文との照合
   第四段落 − 考察から導かれる結論(判断)
※ 今回の場合、答案の最初の東北地方の事例を第二段落にもってくるとよい。

二、表記と表現

  「犯す」(第三段落)→「侵す」
  「しいては」(第四段落)→「ひいては」(延いては)

 講評用紙には、「難解な答案ではあるが自信作というのであれば、表現を解きほぐす必要がある。
他方、説得力のないものとの講評に納得できるなら、書き直すように」と書き添える。
ただ、答案は力作であり、意見の押し付けとなってはいけないので、
「講評には書き切れないこともあるので、連絡を取り合いながら進めよう」とも付け加える。

 すると、ファクスを送ってほどなく電話があった。
控えめながら声に張りがある。文面から受けるのと同じ張りである。
これなら、ストレートに何でも話せそうだ。
「講評に対して反論はあるか」と聞くと、「ない」と言う。
それでは書き直すかと思いきや、「今、次の答案にかかっているので、それを先に見てほしい」と言う。
「諾」と答える。

もどる


第3回 「地についた生活」 

課題文 と 設問
 言葉は目の邪魔になるものです。例へば、諸君が野原を歩いてゐて一輪の美しい花の咲いてゐるのを見たとする。見ると、それは菫(すみれ)の花だと解る。なんだ、菫の花かと思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのをやめるでせう。
                        (小林秀雄『無私の精神』)

◇ たしかに、われわれはほとんどのものごとをこのように見てしまう、このように見ないでしまう。ものごとのそのものの姿を見ずに<菫の花だ>でおしまいにしてしまっている。そのものとのつながりが、目ではなく言葉でのつながりの意味になっている。だから、<菫の花だ>もその言葉として作用し、菫とつながったという錯覚をもつことになり、それで<見た>ことになりうるのである。

◇ 自分のまわりのものごとをしっかり見て暮らすことを、地についた生活と言うとすると、現在のわれわれは地についた生活を失い、幾分か浮いた生活しかできなくなっているように思えるのだ。

◇ それを、情報量の大規模な増大のせいにしてしまってよいかどうかわからないが、少なくとも見るものごとの増大は、見ることを豊かにすることを意味していないことは確かだ。われわれは毎日四六時中<あれは○○だ><あれは××を意味している>として、とにかくその前を通りすぎることに忙しい。<菫の花だ>流で生きている。

◇ もちろん、表現もそうだ。語り口を早め、テンポをあげているのだ。明瞭であり、明快であること、そしてそれを保つテンポを条件として進行している。

◇ まるで、われわれは足早の案内人に導かれるようにしてこの世界を歩いているのであり、その歩調についていくために、足を止めることも遅らせることもできない。

◇ 本屋の店頭で雑誌を開いてみる。現在の雑誌は、見た瞬間に意味の伝わる写真やイラストレーションの多用と同時に、見出しや小見出しがやたらと目につくはずである。

◇ 文章に小見出しをつけていくことは、文章の経過を短い言葉にまとめることであり、結論を急ぐことである。現在の雑誌では、ほんの短い文章でも最後まで結論をのばすのがまどろっこしいらしく、小結論をつぎつぎに差し出してまどろっこしさを避けようとしているのだ。

◇ これは、テレビはもちろん、現在あらゆる表現に共通した作法となっていると言っていいのではないだろうか。いわば、われわれは秒きざみで小見出しが出、小結論が提出されつづけるような表現に追いまくられているように思えるのだ。

◇ 演劇で笑いが求められているのも、おそらくこのことと無縁な現象ではない。笑いが起こることは、そこに一つの小さな結論が出たことになるのであり、小見出しをつけるように機能するのである。現在の笑いの大部分は、ほとんどこの機能としての笑いであるように思えるのだ。

◇ 結論を早め、語り口を早めて、早いテンポで話を通じていくことは、われわれが敏感になったせいであるとは必ずしも言えない。むしろ逆なのだ。それは、われわれが早いテンポで通じることしか口にしなくなっているということであり、敏感な感覚でものごとをじっと見ることをしなくなったせいだと言った方がいい。

◇ つまり、現在の文化は、「なんだ、菫の花か」で通りすぎる者の文化であり、菫の前に立ち止まり、その形や色を見ようとする者の文化ではない。目の文化ではなく、言葉の文化である。

◇ 言葉の文化の中に生きているということは、言いかえれば、不明瞭なもの、語り口を遅らすものを振り落として歩いているということである。

◇ だが、菫の形や色を見ようとするためには、われわれはその前に立ち止まらなければならない。時間が要るからだ。<菫の花だ>とか<可憐だ>とか<自然の不思議>といった明瞭さをもたない何ものかを探らなければならない時間が要るということだ。言葉の文化はこれを嫌うのだ。

◇ そして、見るとは逆のことだ。つまり、不明瞭なものを認めることであり、見る時間を認めることでなければならない。見るとは、不明瞭なものが無価値でないこと、時間の遅れが無意味でないことを認める行為なのだ。

◇ かつては、見ることはそういう行為として認められていた。その価値が自然のうちに承認されていた。見るとは、自然な行為だったのだ。自分のまわりのものごとをしっかりと見て暮らす人たちがいた。そんな目の人がどこにでもいたように思える。

◇ だが、現在の自然な目はこういう目ではない。ものごとの前を通りすごしつつ見るような目のことだ。つまり、<見る>こと、よく見ることは、不自然な行為、意識的に手に入れなければならない行為のようなものになっていると言っていいのかもしれない。


 この文章の内容について考えたことを自由に述べなさい。
 解答文は所定の解答用紙に600字以上1000字以内で書きなさい。
 ただし、句読点および段落のために生じる余白も字数に含みます。

 出題年度:’91 / 出典:太田省吾『動詞の陰翳ー演出の手帖』

答案 と 添削例・諸注意
 私達は無秩序な世界に秩序を与え、認識可能なものにするために言葉を生み出した。しかし、世界を認識するためにあるはずの言葉が、いつからか私達の認識し得る世界を狭めるという皮肉な事態を引き起こしているのだ。筆者の指摘するように、見るものごとが増大するにつけて、それを語る表現は明瞭明快であることだけを追究し、語り口を早め、テンポをあげている。私達はそのようなハイテンポの表現に流されるまま、自分でそのものごとをしっかり見つめることを忘れてしまっている。そして、私達の感覚は鈍り、視野は狭くなっているのだ。

 この傾向はここ最近でさらに強まっているように思う。インターネットを始めとする情報メディアの拡大により、どこへ行っても情報が、言葉が氾濫している。このような風潮に乗り遅れまいと人々は必死になり、もはや立ち止まって自分の周りを見る時間も心の余裕も持ち合わせていないのである。しかし、このようにして手に入れられる情報やものごとは本当に価値あるものであろうか。ひたすらテンポをあげ、明瞭明快であることを目的とした表現、それは即座に結論が出せてしまうような薄っぺらい内容しか含んでいないのではなかろうか。むしろ不明瞭で語り口を遅らすからという理由で、表現から振り落とされてしまったものの中にこそ、重厚な意味を持つものがあるのだと思う。
 例えば菫の花を見るにしても、ただ「菫の花だ」という浅い認識をしただけで通り過ぎてしまったら、その菫の美しさにはっと気づくことはできない。立ち止まって菫を見、他の菫との微妙な色の違い等に気づいたりすることで初めてその菫の美しさを味わえるのである。これは他の様々なものごとにしても同じだ。立ち止まってじっくり見るというプロセスを通して、そのものごとを本当に味わったり、その真の価値に気づくことができるのである。
 立ち止まってじっくり見る、そんなことをする時間の余裕はない、という声もあるかもしれない。しかし、私は時間がないというのは、ハイテンポの表現や情報に溺れて錯覚しているのに過ぎないと考える。本当は時間はたっぷりとあるのだ。情報に溺れて余裕を失ってしまうのであれば、自分で必要な情報を選び、余分な情報は遮断すればいいのだ。重要なのは、立ち止まってじっくり見ることを通してものごとを深く味わうことなのである。
                (以上、約1000字)
← 私達は世界を認識可能なものにするために











← この傾向は最近さらに


























← 私は、時間がないというのはハイテンポの 


講 評
一、内容と構成

 一応筋が通っている観はあるが、「自分の考え」に乏しい。主張と見えるものも、課題文の筆者の考えをなぞる域を出ていない。
 最初の段落の内容は全体の梗概(要約文)かと思われるが、この後の展開で解きほぐされている様子はない。これが序文であるとするなら、結論部との呼応を要する。なお、この段階では、論法の上からも、自分の考えと筆者の考えを区別しておく必要がある。

 最初の段落の「言葉は世界を認識するために生み出された」という考えは、むしろ優れた着眼であると言えるので、これを生かしてみよう。その最良の方法は、筆者の考えに突き合わせてみることである。
 課題文の要旨は、「現代のわれわれは自分の周りのものごとをあまり見ないで、言葉で納得してすごしているが、これでは足が地に着いた生活をしているとは言えない」ということである。
 これを、「言葉は世界を認識するために生み出された。しかし、世界を認識するためにあるはずの言葉が、いつからか私達の認識し得る世界を狭めるという皮肉な事態を引き起こしているのだ」という自説につないでみよう。

 これらをつなぐ事柄を自分の経験や見聞の中で探してみよう。「菫」の話とは別の、似たような話をね。例えば、自動車に乗っていた時の飛び過ぎてゆく風景のことでもよい。具体例を入れよう。体験が「自分の考え」のもとになるのだ。
 これが入れば、もう理屈は要らない。最初の段落の考えがそのまま結論となる。念のため、これによる構成を見てみよう。
 序論 − 課題文の大意、ないし、要旨
 本論 − 課題文に類似の、または、反対の事例
 結論 ー 言葉の弊害(最初の段落の考え。ただし、課題文の筆者の
       考えを抜いたもの)

 それはともかく、「父さん、……」と、呼びかけるような調子で書いてみてはどうか。そのほうが本心が出て、かつ、リズミカルなものになると思われる。


二、表記と表現 − 添削例参照。

◎ 得点ー65、 ランクーC

 この答案が届いたのは二月の六日であった。
「試験は何日かと書き添えると、「20日です」と電話があった。
ついでに、「父さん、……」のことを話すと、「あの時は、うまく書けたんですけど、
……どうしても、こうなってしまうのです」と言う。
それゆえに、要旨なり体験なりを踏まえて考えを書くようにと念を押す。

もどる


第4回 「名を記録する行為」

 一度書き直してみるとよいのだが、書いてみたいものがあと二つあるので、それを先に書きたいと言う。
書き方はもう分かっているだろうから、任せることにする。

課題文 と 設問
 今朝、紅茶を飲みながら新着の雑誌をペラペラとめくっていたら、そのなかにこんな見出しが目につきました。
 「犬は自殺をするものか」
 いったい犬は自殺をするものでしょうか。
 これは興味のあるところです。なぜなら、自殺する者こそ「死」という事実を知るものであり、ある種の反抗的な動物であるからです。わたしの読んだ記事では、ギリシアの俳優ポーラスの犬が、主人の火葬の際に、燃えさかる火のなかに飛び込んだ例をはじめ、『古今著聞集』 『桃蹊雑話』のなかのいくつかの犬の「自殺」の例をあげながら、「犬が自殺をしたというはっきりした証拠はいまだに探し出せない現状」だと結論づけてありました。わたしは、犬の自殺の九割が殉死、または後追い心中の形をとっていることにひどく興味をもちましたが、なにしろ、こんなに数多くの犬が、死をもってした自己表現が「証拠づけられずにいる現状」に、いたく同情したというわけです。
 元来、自殺の決め手になる決定的な手がかりは遺書であります。何かに、受け入れられずに腹を立てて死ぬとき……人はたいてい遺書にその旨銘記しておいて、一つの表現として死ぬわけであり、それだけに犬の自殺ほど純粋ではありません。それにひきかえ犬の自殺は、そうした効用とは関係なく、悲しくて死ぬのであり……死によって、何かの価値を回復しようと考えるものではないのです。人の自殺は、多くの場合、give and take の法則にのっとっていて、遺書には、死の代償として支払われたいものの価値が書いてありますが、犬は遺書を書かない。
 ここはさらに重要な点です。
 犬には言葉がないのです。
 いったい、言葉がなくて思想が成立し得るものか……、これもまた興味深いところであり、表現と切りはなした、自己形成のための土台が犬の場合は、何によって習得され得るのか。これを考えてみる必要もあるようです。
 すなわち、老犬の中に実に人格者(犬格者)を見出すことがあります。自己犠牲的で、こころやさしい老犬を見ていると、わたしは犬たちだけが信じている「死後の世界」があるのではないか……と考えないわけにはいきません。
 西脇順三郎の詩の一節に、

     犬はいい目をもっていたので
     すべてのものが灰色に見えた

というのがありますが、色彩を知らない犬のなかでの「死後の世界」のイメージは、いったいどんな色をしているのか?
 それを聞いたり、話したりすることができないところに犬と人間の、永遠に悲しい関係があるのではないでしょうか。
 私は、散歩につれていくたびにジルが電柱の根もとにおしっこをするのを見ながら「落書」を思い浮かべます。それは山小舎の板や、白樺林の幹、六本木のレストラン「シシリア」の壁などに人間が自分の名を彫るのに似ています。そして犬のように、それが生理で統一されていないところに人間の複雑さがあるような気もしますが……、言葉というやつは、つまるところ自分の名をいうことではないか、というふうにも考えられるのです。
 犬がおしっこで自分の行為を記録するように、人はさまざまの言葉で自分の名を記録しようとこころみる。要するに生きるということは一つの名の記録へのプロセスだ、と考えるなら、自分の名さえ太くつよく彫りこめば、それで青年時代は終わりなのかもしれません。
 人間は、一つの言葉、一つの名の記録のために、さすらいをつづけてゆく動物であり、それゆえドラマでもっとも美しいのは、人が自分の名を名乗るときではないか……、と私はふと考えました。
 ジャン・アヌイの『ユリディス』の有名な名乗りのシーンはこんなふうに終わっています。
──さあ、物語が始まるよ
──あたし少しこわいわ……あなた、いい人?悪い人?お名前は?
──オルフェ、君は?
──ユリディス

(注) ジルは筆者の飼っている犬の名前。

 この文章の内容について考えたことを自由に述べよ。

出題年度:(未確認) / 出典:寺山修司(作品名未確認)

答案 と 添削例・諸注意
 生きるということは一つの名の記録へのプロ
セスだ、という考えは、とても的を得ていると思
う。自分の名を刻むということは、自分の存在
の証を立てることであり、ひいては自分の人生
全てを表現することだ。筆者は、人はさまざま
の言葉で自分の名を記録しようとこころみると
書いている。自分の名を刻むために、人はそ
れぞれ違った言葉を用いるのだ。では、私は
自分の名を刻むためにどんな言葉を知ってい
るだろうか、と考えた時、一つもそのような言
葉を思いつくことができなかった。そもそもそ
の人の人生を語る言葉とは、一体どのような
ものなのだろうか。
 ふと、先日ドキュメンタリー番組で見た杉原
千畝氏の人生が思い浮かんだ。彼は当時ナ
チスドイツによって過酷な迫害を受けていたユ
ダヤ人を海外へ脱出させるため、時間の許す
限りビザを書き続け、六千人ものユダヤ人の
命を救ったのだ。しかし、ドイツと同盟を結んで
いる日本の外交官としての立場では、この行
為は許されまじきものだった。彼は外交官と
いう地位を失い、非国民と言われ続けた。彼
のした行為が正当な評価を受けるようになっ
たのは、何十年も後になってからだった。
 私が強く感銘を受けたのは、杉原氏の次の
ような言葉だった。「私のしたことは外交官と
して間違っていたかもしれない。だが、私は
必死に助けを求めてくる人達をそのまま見
捨てることはできなかったのです。大した事
ではありません。当然のことをしたまでです」
この言葉には、自分の信念を貫いた杉原氏
の生きる姿勢そのものがにじみ出ていると
感じた。この言葉こそ、杉原氏の名を刻んだ
言葉と言えるのではないだろうか。しかし、こ
の言葉よりももっと太く強く杉原氏の名を今
も刻み続けているものがあると気づいた。そ
れは杉原氏に救われた六千人のユダヤ人
と、その子孫の命。彼が救った六千人の命
は、今では三万二千もの命となっている。こ
の脈々と受け継がれていく多くの命こそ、杉
原千畝という人の名を刻み続けていく真の
意味での言葉なのだ。
 このように、人生を表現する言葉には、様々
な形があるのだと思う。そして自分の名を刻
むということは、もしかしたら生涯をかけても
達し得ないほど難しいことなのかもしれない。
しかし、私は杉原氏のように自分の信念を貫
く意志の強さをもって、私らしい生き方を模索
しながらしっかり歩んでいきたいと思う。そう
することで、いつか自分の名を太く強く刻むた
めの私だけの言葉を見つけられると信じてい
る。
               (以上、約1000字)

← 的を射ている




※ 「自分の名を……」の文と、この後の三つの「言葉」という語の用法について、「講評」参照。











← 許さるまじ











※ 「……名を刻んだ言葉…」の「言葉」は、第一段落を整理すれば、それに合わせる必要がある。











※ 末尾の文について、参考までに。
  「そうすれば、単に山小屋の板に落書する程度でなく、人生に自分の名を太く強く刻みつけられると信じている」


講 評
一、内容と構成
 実にスムーズに読める。読後に納得のゆくものもある。その最も大きな理由は、引き合いに出した事例のよさにある。杉原さんの話が論の中身を充実させているといってよい。語り口もさることながら、話が的確に引用されているのも大きな説得力となっている。

 ただし、検討を要することが一つある。7行目の「自分の名を刻むために、人はそれぞれ違った言葉を用いるのだ」という文は文脈上意味が不明なので、削除するか、その中の「言葉」という語を他の語に置き換えるかする必要がある。
 この文を生かす場合は、「言葉」と「名前」の関係について、特に第一段落で整理しておきたい。筆者によれば、「言葉」は結局「名」と同じものであるか(終わりから三つ目の段落(「犬がおしっこで……」で始まる段落)の2行目の「要するに、…」の文)、あるいは、「言葉」は「名」に収束されているか(その次の段落の1行目の「人間は、一つの言葉、……」の文)である。よって、この文の後半を、例えば「……、人はそれぞれに行動をするのだ」とでもする。そして、この後の三つの「言葉」を、犬の「行為」に準じて、行為、行い、行動、活動、……等の語に置き換える。
 そうすれば、次の杉原氏の話にも、よりスムーズにつながり、また、オーバーラップもしよう。

二、表記と表現 − 添削例参照。

三、その他
 引用する事例も評価の大きな対象となる。試験官はこの答案を読んで、こう思うかもしれない。「この生徒はいい感性をもち合わせている。それに、試験期とはいえ、いいもの、大事なものは見逃してはいないようだ」とね。
 ひらめきを大切に。

◎ 得点ー80、 ランクーB
  (減点は主に「一」で挙げた語の問題による)

 杉原千畝さんの話は、その10日か2週間前にNHKテレビで放送されたものだった。

もどる


第5回 「民族の統合と分裂」

課題文 と 設問
 「分かったろう。日本の近代の政治家や官僚は、日本人を単一民族化しようとしてきたのさ。それまでの日本は、もう何べんも話題になったように……」

 「いくつもの藩に分かれていました。江戸時代には」

 「そうだね。その一つ一つの藩は、いわば小さな国だった。殿様は絶対だった。殿様のためになら、命を投げ出すつもりになる人間が、まだまだたくさんいた。というよりは、それは自分の意志ですらなかった」

 「『忠臣蔵』の四十七士のような侍になることを、外側から要求されていたのですね」

 「仇討(あだう)ちしろという圧力を感じていた。その四十七士に、天皇のために死ね、と説教したら、そのつもりになっただろうか。天皇に捧げた命だ、殿様の仇討ちごときに、無駄に使ってはならない。そういう説得が有効だったろうか」

 「いや、有効じゃなかったでしょう」

 A君は首を横に振った。

 「つまり、いざとなったら、藩は互いに戦いあう可能性を秘めながら存在していたのだ。互いに、習慣も違えば、言葉も違う」

 「たしかに、彼らに『吉良も浅野も同じ日本人じゃないか、仇討ちはやめろ』という説得は無駄だったでしょうね」

 「薩摩の人間が沖縄の人間を、同じ日本人意識をもって見ていただろうか」

 「いやいや」とA君はまた首を横に振った。「おそらく、違う言葉を話す、外国人と見ていたでしょう」

 「沖縄の言葉が、日本本土の言葉と同根だと、言語学者が説明しなければ、外国語と思った者も多かっただろうね」

 「それが、明治維新で一つにまとまりかけてきた」とA君は言った。

 「紆余曲折しながらね。そう簡単ではなかったのさ。確かに、同じ日本人ではないか、という意識をもつ人間が増えてきた。そとからの圧力が『同じ日本人』意識をもたせたことは確かだね。江戸時代の後期から、その傾向が見えてきた。しかし、まだまだそれは少数派で、古い権力の保持者から、すんなりと権力を譲り受けることはできなかった」

 「革命が必要だったんですね」

 「国というのは、欧米から学んだ観念だったのだよ。欧米のようになることが近代化だったのだ」

 「なるほど」

 「当時の日本に住む人間は、どのようなアイデンティティをもっていただろう。アイデンティティというのは、『自分は何者か』という問いに、自分で出す答えと思えばいい。君はどう思う」

 うーん。おそらく自分は薩摩人なら薩摩人だ、というアイデンティティをもっていたのかな」

 「階級の意識も強かったろうよ。だから、薩摩藩士誰々と名乗ったのじゃないかな。しかし、自分は藩士であるが薩摩の商人ではない、という意識を持っていたに違いない」

 「そうですね。強い階級差別観があったでしょう。身分の違いは、同じ日本人意識を阻んでいた」

 「さっきの子どもの質問だけど、『同じ』という言葉で自分と一緒にくくるものに、人間は所属感を抱いているんだよ。だから、会話の中で『同じ』という言葉の使い方を観察していれば、持っているアイデンティティが分かる」

 「じゃあ、そういうやり方で当時を観察すれば、『同じ○○』意識を持てるのは、大家族の家族の内部か、せいぜい藩の武士ぐらいの集団ではなかったかな」

 「他の人間に対しては『同じ』どころか、差別的で『違い』のほうが意識されていたんだね」

 「なるほど、階級が問題だった」

 「階級は大きな壁だったと思うよ。明治になっても、戸籍に士族などという肩書きを残させるほどだった。差別によって結婚を拒むというケースも多かった」

 「これはなかなか越えられなかった壁なんですね」 辺りはますます薄暗くなってきた。ぼくたちは薄闇の中で見えない壁のことを見ようとしていた。

 「ぼくたちは、生まれた時から日本人のような顔をしているけど、こうして徐々に日本人になってきたのですね」

 「そのためには国民教育が必要だった」 A君の顔が輝いた。

 「教育ですね。学校で標準語を学び、天皇を神として信仰することで、日本人意識をつちかった」

 「方言を使うことを禁止し、使った者を罰するまでして、同じ言葉を話す人間をつくろうとした。地方のアクセントをもつ人間は劣等感を抱かせられた。しかし、この標準語なるものは、ほとんど人造言語にも等しかったんだよ。当時の日本に住んである人間の九割までが、何らかの方言を話していた。東京のほとんどの地域で話されていたのは、ヒとシの区別がつけられない、江戸弁という方言だった」

 「ねえ、とか、べえ、とかが終わりにつく言葉ですね。そういえば、日比谷をシビヤと発音していたんですってね」

 「火箸がシバシになったよ。その間違いをやるまいと思うと、逆にシをヒと読むことにもなった。たとえば、渋谷をヒブヤと読んでしまった」 ぼくは苦笑いしながら言った。

 「だから、標準語という共通語を導入して、それを全員で使うようにしたんですね」

 「そればかりではないさ。小学唱歌のように新しい欧風の歌を導入した。最初のころの小学唱歌の中には、ヨーロッパの民謡に日本の言葉をつけて歌わせたものもある。しかし、全国の子どもがそれを習うと、いつの間にか共通の記憶となり、それを歌えば、ジーンとなるんだ。戦争中、外国的なものを全部追い出そうとした文部省だが、卒業式の『蛍の光』のメロディーは追放できなかった」

 「相変わらず皮肉な発言ですね」

 ぼくは苦笑いしながら続けた。「ま、これは性質だから。ともかく『日本人』は作られたものだったことが分かればいい。ところが、『日本人』は作られたものだったことが分かればいい。ところが、『日本は昔から単一民族だった』と思い込んでしまう人が多いんだ。今では、古代にたくさんの大陸からの帰化人がいたことが知られている。少なくとも現代の日本人の祖先の、かなりの部分が帰化人だといってもいいだろう。古代の日本は、複数の部族で構成されていたんだ。もちろん中世以降もそれに変わりはない。日本でも複数の部族を無理に単一化するのが、近代化の努力だったさ」

 「ともかく、学校で標準語を教え、共通の価値観を持たせるように心がけ、同じ日本人意識を持たせようとしたんですね」

 「『同じ日本人なのに、自民党や社会党があるんですか?』という質問をする方が、その教育の結果としては当然なのかもしれないなあ」

 近代化は単一化

 「言葉が悪いんですね」とA君は言った。

 「そうなんだよ。単一民族というから、フィクションになってしまう。そうではなく、単一化された国民と考えればいいんだよ。複数のエスニック・グループを抱えた近代国家は、例外なく、国民を単一化しようと努力してきた。教育もその一つの手段だった。その他、交通を整えた。これはどこの国でも国家的事業だ。鉄道だけは国営のところが多かったね」

 「これは社会主義以前から国営です」

 「そのために、人の行き来が頻繁になった。通信施設を作ったね。これも国営のところが多かった。行政組織にはいろいろな人間が入るから、エスニック・グループの言葉が混じり合う。こうして人間が接触しているうちに、互いに溶け合って、違いが不鮮明になってきた。それが文明開化の意味だったことは前にも話したね」

 「ええ」

 「そうしているうちに、国民は次第に国に所属感を感じるようになったんだ。国民としてのアイデンティティを持つようになったのだよ。同じ日本人なら日本人という意識を持つようになった。これは日本人ばかりでない。イギリスだってフランスだって同じことだよ。フランスにはブルターニュ人、バスク人、アルザス・ロレーヌ人などのエスニック・グループがある」

 「ええ、アルザス人はドイツ系でしょ。ドイツ語をしゃべる」

 「そのドイツ語をしゃべるアルザス人も、フランス人意識を持つようになっている。ブルターニュ人には分離主義者もいるけれど、けっこう同化が進んで、彼らだってフランス人意識を持つようになっている」

 「バスク人はどうなのでしょう」

 そう言われて、ぼくは若い頃フランス語を教わったカンド−神父ののことを思い出した。彼は第二次世界大戦の時に、対独戦争に出て片足を失っていた。「スペインのバスク人のの中にはしゃにむにスペインから独立をという者もいるけれど、フランスのバスク人にはフランス人意識を持っている者も多いね。日本に来ていたカンド−神父がバスク人だったけれど、彼なんかも、はっきりとフランス人意識を持っていたね。同時に、日ごろ自分はバスク人だとも言っていたので、二重のアイデンティティを持っていたと言ってもいいだろうか。しかし、それは過渡的なもので、いずれは一つの国民意識に変わるものだった」

 「楽観的に考えればそうでしょう。それに、ぼくなどはフランス人の中にアルザス人がいてもバスク人がいても見分けがつきませんよ」

 「名前だけでは見分けがつかない。本人の意識の問題だからね。シュバイツァー博士は国籍上はフランス人だけど、日本人にとっては名前がドイツ語ふうなので、ドイツ人かと思ってしまう。キュリー夫人はポーランド系だけどフランス人だ。しかし、彼女だって、時とともにフランス人意識を持つようになっている」

 「国民化していったのですね。フランス人は民族を意味しない。フランス共和国に住んでいる人間を意味するだけ。その中にはいろいろといるわけだ。イギリス人だってそうですね。スコットランド人やウェールズ人たちと一緒になって連合王国グレート・ブリテンという単位を作った。ぼくたちには外側から、スコットランド人もウェールズ人も見分けがつきませんよ。問題があるとしたら心の中ですね。見えない部分ですね」

 そう言われて、ぼくはかつて読んだイタリアの『父(パードレ・パドローネ)』という小説を思い出していた。「そう、そう、その見えない部分を作り上げようとしたのが教育なんだ。これは近代国家が判で押したようにやったことだ。国旗を揚げ、国歌を歌うことを習慣づけ、仮想敵を設けながら、そういう意識を植えつけようとしたのさ」

 「教育はその点、暴力的ですねえ」

 ほんとうにそうだ。A君、君はイタリアの『父(パードレ・パドローネ)』という小説を読んだことがあるかね」

 「どんな小説ですか」

 
「親が小学校にも行かせてくれなかったため、文字を知らなかったサルデーニア島生まれの羊飼いが、イタリア語の読み書きを軍隊で習い、しまいには小説家になるまでの話さ。これは自伝的な作品だ。だから、実際にあったことと思って間違いない」

 「へえ、この現代に、そんなことがまだあるんですか」

 「イタリアにはまだあるんだねえ。作者はぼくとほとんど変わらない年齢の人だよ。サルデーニア島生まれの主人公が、羊飼いでは生活できなくなって軍隊に入る。そこで新兵を教育する下士官が言う。『これは国旗だぞ。国旗だ、いいな。親を忘れてもいいが、この国旗は忘れるな』。ここで彼は標準語も覚えるんだ。そんな情景が描かれている」

 「現代の話ですか」

 「現代の話だよ。イタリアは地方性がまだ色濃く残っていて、ともすればばらばらになりそうな国だ。まだサルデーニアには山賊さえ出るんだよ。シチリアもそうだけど、そこでサルデーニア人意識、シチリア人意識より、さらに強いイタリア人意識を兵隊に持たせようと、軍の幹部は懸命なわけだ。ユーゴスラビアの連邦軍の幹部が、セルビア人意識、クロアチア人意識を越えたユーゴスラビア人意識を持たせようと必死になっていたのと同じことさ。内戦の一方の主役の連邦軍は、そのような意識を詰め込まれた若者なんだろうか」

 二人はユーゴの位置を地球儀で見つめた。この地球儀は確実に古いものになるだろう。


 この文章について考えたことを、600字以上1000字以内で述べなさい。

出題年度:(未確認) / 出典:なだいなだ『民族という名の宗教』


 答案には次の手紙が添えられていた。
 「明日、東京へ出発します。よい結果をお知らせできるよう、がんばって来ます!」

答案 と 添削例・諸注意
 日本人が単一民族ではなく、単一化された
国民であるというのは最もなことだ。一つの国
としてのまとまりを保持するために、複数のエ
スニックグループを同じものに近づけていった
のである。それは明治維新により西欧世界に
さらされるようになった日本においては、必然
的なものだったかもしれない。しかし、その方
法は強引で抑圧的であり、大きな問題点が
あったと考える。
 本文に「日本人」意識を持たせるための国
民教育の例として、共通語を導入したことが
挙げられている。その導入の方法をみると極
めて強引だと分かる。当時の日本では九割
の人が何らかの方言を話していたにも関らず、
標準語を定着させるためにその使用を禁じ、
使った者を罰し、方言を使うことに対する劣等
感までも植えつけた。方言を完全に排除しよ
うとしたのである。明治維新で西欧文化に接
するようになった時も同じことが行われた。西
欧に追いつこうと必死で西欧文化を取り入れ
ようとする一方で、今まで培ってきた文化を
悪いものとして排除しようとした。
 多民族国家メキシコで活躍している人権活
動家にリゴベルタ・メンチュウという女性がい
る。以前テレビで彼女の特別授業を見て、と
ても感銘を受けた。グアテマラには数十の異
なる部族が今も存在しているが、過去には凄
惨な部族間の抗争や対立があった。そして、
今でもそのわだかまりは解けずに残っている。
メンチュウの特別授業は様々な部族から集ま
った十代の少年少女達が互いに自己紹介を
するところから始まる。名前と部族、それから
自分の好きな言葉を一人ずつ述べていく。そ
うして一週間ほどかけて互いを知り、自分と違
った所などを発見しながら、子供達は互いの
部族を理解し、尊重し合うことを学ぶのである。
互いを尊重すること、そして自分の部族の文
化を誇りに思うこと、この2点をメンチュウは強
調した。
 日本にもこのような教育が必要だったのでは
ないだろうか。新しいものを推進して既存の文
化を排除するのではなく、既存の文化の価値
を認めながら新しい要素も取り入れていく。そ
うすればもっと自然な形で国民に「日本人」意
識を育むことができたのではないだろうか。そ
して、西欧に対する劣等感などに屈しない日本
人としての誇りや自負を持てたのではないか。
現代において日本人の国民意識が乏しいの
は誇りの欠落に起因しているのだと思うので
ある。
               (以上、約1000字)

← もっともな(尤もな)





※ 第一段落の扱いについて
「講評」参照。


← その導入の方法は極めて強引だった。(※ この段落では自分の考えを排し、課題文にあることのみを書く。次も同じ。)
← ……使った者を罰し、方言を完全に排除するために、方言を使うことに対する劣等感までも植えつけた。


講 評
一、内容と構成
 仮に第一段落はないものとして、第二段落から読んでみよう。メンチュウさんの話が光るのではないかな。また、それによって結論部の考えも、課題文の内容との呼応によって、いっそう説得力を増すことだろう。
 第一段落を削除し、もっと刈り込んでみよう。第二段落から意見・感想の類いを排除して、課題文の要約だけにするのだ。そうすれば、前述の結論部の説得力が増すのみならず、その間のメンチュウさんの話がより一層生きて、全体が揺るぎない力をもつことになろう。
 それにしても、第四段落の考えもさることながら、第三段落のメンチュウさんの話がすばらしい。いつものことだが、引き合いに出してくる事例がよい。これあるがゆえに、答案がいつも輝いている。思うに、その輝きは話を引っぱり出してくるミキちゃんのひらめきにほかならない。
 ひらめきを大切に、あとは「事実を踏まえて意見を述べる」ことを心がけて試験に臨まれたい。

◎ 得点ー80、 ランクーB

 添削を終えたのは当日の8時ごろであったか。急いで送信する。
 「講評」には、「結果が出たら、受かった大学を全部お知らせください」と書き添えておいた。


 3月3日、高校入試の合格祝賀会の準備をしているところへ宅配便が届いた。
中には土地の名産と、次の手紙が入っていた。

 小論文では大変お世話になりました。おかげ様で第一志望校に合格することができました。
 先生の教えて下さった、ひらめきを大切に、私らしさを出すことを意識して、本番では思い切り書くことができました。
 丁寧なご指導、本当にありがとうございました。両親もよろしくと申しておりました。同封の品は心ばかりですが、郷土産の佃煮です。召し上がって下さい。
 合格した大学をお知らせします。
 ◎ 早稲田大学 第一文学部  早稲田大学 人間科学部
   学習院大学 文学部    立命館大学 産業社会学部
 

和風庭園(昭和記念公園)

もどる