答案百花 光る文章講座 大学入試の小論文 —— 芸術系 —— 推薦 ・ 一般 |
① 「大学で学びたいこと」(1) ② 「大学で学びたいこと」(2) ③ 「これからの音楽について」 ④ 「現代美術について」 ⑤ 「興味のある美術家」 ⑥ 「興味のある彫刻家」 ⑦ 「暗誦と朗誦」 ⑧ 「演劇の魅力」 ⑨ 「芸術家が表現するもの」 ⑩ 「再表現の独創性」 ⑪ ※ 美術レポート |
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答案百花「大学入試の小論文」 →文系 →理系・医系、 →「時事用語」
→編入試験
作文打出の小づち・総もくじ
作文編 国語編 小論文編 閑 話
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はじめの答案 | 添削例・諸注意 |
私は将来、レコーディングエンジニアになりたいと思っています。 私は中学生のときからギターをやっています。高校では友人たちとバンドを組んで、何度かライブハウスで演奏しました。ライブハウスのスタッフの人たちは、私たちが演奏する前に何度も何度も「はっ、はっ」とマイクに向かって発声したり、楽器の音を拾うためにマイクの位置を変えたりと音の調整をしていました。そんなプロの姿に憧れ、音を操るエンジニアという職業に興味をもちました。レコーディングエンジニアを志したのは、音をゼロから作り上げるところに魅力を感じたからです。 以前は、エンジニアは裏方というイメージが強かったのですが、去年オープンキャンパスに参加したときに、先生方が言っていた「これからはエンジニアはアーティストなのです」という言葉が印象的で、この1年間ずっと心に残っていました。私は、アーティスト性というものは想像力、感受性、表現力、そういったものだと思っています。これらはまだ私には欠けているものだと思っています。そう思ったのは、高校の後輩のバンドを友人や先輩と見ていたときのことです。サックスを演奏している人がいて、私はもう少しサックスの音を大きくすればバランスがとれるのではないかと思ったのですが、先輩は「これでいい」と言いました。また、私が、ベースの音がぼんやりとしか聞こえないと思ったときは、先輩はその原因とそれを改善するための演奏方法をちゃんと説明してくれました。音に対する人の感じ方はそれぞれだと思いますが、私がなぜそのとき音のバランスが悪いと思ったのか、先輩はなぜよいと思ったのか、それを理解し、説明することができず、悔しい思いをしました。 それからは、音に対する感性を磨くために、音楽を聴くときは一つ一つの楽器の音を確かめるように聴いたり、パソコンで曲を作ったりしました。知識を身につけるためにレコーディング関係の本も読みあさりました。しかし、文字だけの情報では実感することができず、しかも、レコーディング機材に触れる機会もあまりないので、はがゆい思いをしています。 そういったことから、この大学のミキシングの演習などの、音を操る授業に特に期待しています。また、幅広く知識を身につけるためにも、音楽の理論や歴史の授業にも関心があります。私の思い描くアーティストなエンジニアに一歩でも近づけるように日々努力します。 (以上、約1000字) |
← マイクに向かって何度も何度も「はっ、はっ」と…… ← マイクの位置を変えたりして、音の調整を…… ← 本学のオープンキャンパスに ← 先生方がおっしゃっていた ← ……残っています。そして、アーティストに必要な資質は感受性、想像力、表現力だと考えるようになりました。これらは、私にはまだ不足しています。それは、例えば、高校の後輩のバンドを友人や先輩と聴いているときに実感しました。 ← 演奏方法をきちんと説明して ← 音に対する感じ方は人それぞれだと思いますが、あのときなぜ私が音のバランスが悪いと思い、先輩はよいと思ったのか、それが分からず、もどかしい思いをしました。 ← 曲を作って確かめたりしました。また、レコーディング関係の本も…… ← 本学にはミキシングの演習など、音を操る授業があります。私はこの演習に魅力を感じ、特に期待しています。 ← アーティストとしてのエンジニア |
主に体験を書いているが、これによって、何を学びたいかが具体的によく分かる。
「実績に基づいて抱負を述べる」という論述の基本に適っている。
書き直した答案 | 添削例・諸注意 |
私は将来、レコーディングエンジニアになりたいと思っています。 私は中学生のときからギターを弾いています。高校では友人たちとバンドを組んで、何度かライブハウスで演奏しました。ライブハウスのスタッフの人たちは、私たちが演奏する前にマイクに向かって何度も何度も「はっ、はっ」と発声したり、楽器の音を拾うためにマイクの位置を変えたりして、音の調整をしていました。そんなプロの姿に憧れ、音を操るエンジニアという職業に興味をもちました。レコーディングエンジニアを志したのは、音をゼロから作り上げるところに魅力を感じたからです。 以前は、エンジニアは裏方というイメージが強かったのですが、去年本学のオープンキャンパスに参加したとき、先生方が「これからはエンジニアはアーティストなのです」とおっしゃった言葉が印象的で、この1年間ずっと心に残っています。そして、アーティストに必要な資質は感受性、想像力、表現力だと考えるようになりました。これらは、私にはまだ不足しています。それは、例えば、高校の後輩のバンドを友人や先輩と聴いているときに実感しました。バンドの演奏で、私はもう少しサックスの音を大きくすればバランスがとれるのではないかと思ったのですが、先輩は「これでいい」と言いました。また、私が、ベースの音がぼんやりとしか聞こえないと言ったとき、先輩はその原因とそれを改善するための演奏方法をきちんと説明してくれました。音に対する感じ方は人それぞれだと思いますが、あのときなぜ私が音のバランスが悪いと思い、先輩はよいと思ったのか、それが分からず、もどかしい思いをしました。 それからは、音に対する感性を磨くために、音楽を聴くときは一つ一つの楽器の音を確かめるように聴いたり、パソコンで曲を作って確かめたりしました。また、レコーディング関係の本も読みあさりました。しかし、文字だけの情報では音を実感することができず、また、レコーディング機材に触れる機会もあまりないので、はがゆい思いをしています。 本学にはミキシングの演習など、音を操る授業があります。私はこの演習に特に魅力を感じます。 また、音楽の理論や歴史の授業もあるので、幅広く知識を身につけるために、これらにも期待しています。私の思い描くアーティストとしてのエンジニアに一歩でも近づけるように日々努力したいと思います。 (以上、約1000字) |
◎ 音をアレンジして新しい音楽を生み出すという意味でアートなのだね。そうすると、「音をゼロから作り上げる」ということには異論が出るだろうが、それは今後の課題としよう。 |
② 「大学で学びたいこと」(2)
課題は、正式には
「学生時代に打ち込んだことと本学で学びたいこと」
となっている。
答案の筆者は大学4年生で、美術大学の受験に備えている。
はじめの答案 | 添削例・諸注意 |
学生時代に打ち込んだことで一番に思い出されるのは、「黄金の針コンテスト」のための作品作りをしたことである。「黄金の針」は、「クロワッサン」という女性雑誌が主催していたパッチワークの壁掛けのコンテストである。年に一度行われ、入賞作品の展覧会が1年がかりで日本全国を巡回した。手芸のコンテストでは最大級のものであった。パッチワークというと、端切れを縫い合わせて作ったベッドカバーなどが想像されるかもしれないが、実際の応募作品は布に描かれた絵画のようであり、また、作品の大きさも2メートル四方まで許されていたので、大作が多く、初めて見たときは圧倒される思いであった。 私はこのコンテストに3回参加した。一度目は聖書の原罪の場面を、二度目は心の明と暗を、三度目はオペラハウスとバレエの一場面をモチーフに、それぞれ約1年をかけ、針を筆に、布を絵の具にして作り上げた。膨大な時間と手間を要する作業は、あり余るほど自由な時間と未熟で不安定な感情を持て余していた学生時代にはちょうどよい自己表現の場であった。 残念ながら、「黄金の針コンテスト」は現在は行われていない。また、私自身も現在は二次元の世界から人形制作という三次元の立体表現へと興味を広げている。 貴校での4年間は、人形制作のための基礎がために費やしたい。主にビスクという素材を用いて制作しているが、貴校のカリキュラムを通して木彫やテラコッタなどの他の素材に関する知識や技法を身につけることで素材の特性による表現への制約を取り払い、表現の幅を広げたい。また、基礎的な立体造形の演習を通して、イメージと指先の作業を近づけたい。 ただポツリと在るだけではない、存在感と空間を感じさせる作品に一歩でも早く近づくために、彫刻の基礎と応用を貪欲に学んでいきたい。 (以上、約800字) |
◎ 「一度目は〜、二度目は〜、三度目は〜、」という書き方は簡潔明瞭で、実に分かりやすい。 ← 自己修練の場 ← 貴校のカリキュラムには木彫やテラコッタなどの、他の素材を用いた演習があるので、これらの知識や技法を身につけ、素材の特性による表現の制約を取り払って表現の幅を広げたい。また、……、イメージを指先の作業に近づけたい。 ← 彫刻の知識と技法を…… |
打ち込んだことも大学で学びたいことも
じゅうぶん課題に応えている。
表現上は
終わりから2段落目の後半を整理すればよい程度なので、
書き直しの答案は省略しよう。
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③ 「これからの音楽について」
名古屋芸術大学の出題である。
はじめの答案 | 添削例・諸注意 |
私は、ギターを弾くことに夢中になっていたせいか、他の音楽には全くといっていいほど興味がなかった。姉がテレビの前でアイドルたちの歌番組を見て騒いでいても、横目で見ているだけだった。ところが、バンド仲間はポップミュージックをはじめ、いろいろな音楽を話題にするので、話についていけなくなった。そこで、テレビやラジオの音楽に耳を傾けるようになった。 いいと思った曲の題は友人に聞いたり、CDを借りて中味を確認したりした。音楽情報誌も読むようにした。ただ、言葉の説明だけで中味を想像するのは困難である。試聴できればよいのだが、聴かずに買うには勇気がいる。アーティストの前評判だけでCDを買って、後悔することがよくあった。やはり自分の耳で聴いて判断したい。ラジオではFM放送をよく聴くようになった。いろいろな曲をいい音で流してくれる。それでも、いい曲だなと思ったときには題名やアーティスト名の紹介が済んでいて、チェックできずにいることも多かった。 そこに登場したのがインターネットによる音楽配信である。目当ての曲を好きな時に好きな場所で試聴できるから、購入するには何の心配も要らない。探すのが困難なCDは、インターネットで確かめて購入すれば、店へ買いに行ったがなかったということはなくなった。それが、さらに、好きな曲はパソコンでダウンロードして購入できるようになった。 音楽といっても、アーティストの表現方法は様々であり、聴くほうにも様々な好みがある。だから、音楽配信で1つの音楽に捕らわれることなく、バラエティーに富んだ音楽の世界に触れることができるようになった。私は将来、音楽の世界で何らかのプロデュースをしたいと考えている。そのために音楽配信やダウンロードを利用して、できるだけ多くの音楽を聴いていこうと思う。 (以上、約800字) |
← 私は中学生の頃から、ギターを…… ← ところが、高校生になってバンドに参加すると、仲間は…… ← インターネットでその店にあるかどうかを確かめておけば、…… ← ……好みがある。それに対して、音楽配信によってバラエティーに富んだ…… ※ 音楽それ自体はこれからどうなるのだろう。それについて、論じておきたい。 |
音楽との付き合いや入手方法はよく書かれているが、
課題の「これからの音楽」について論じられているとは言い難い。
そこで、大幅に書き直すことになった。
書き直した答案 | 添削例・諸注意 |
私は中学生の頃から、ギターを弾くことに夢中になっていたせいか、他の音楽には全くといっていいほど興味がなかった。姉がテレビの前でアイドルたちの歌番組を見て騒いでいても、横目で見ているだけだった。ところが、高校生になってバンドに参加すると、仲間はポップミュージックをはじめ、いろいろな音楽を話題にするので、話についていけなくなった。 そこで、テレビやラジオの音楽に耳を傾けるようになった。ふだんは主にFM放送を聴いている。私はギターを弾いている関係で、ギターの曲や演奏に惹かれるが、FMはいろいろな音楽をいい音で流してくれるので、音に興味をもつようになった。ギターでいえば、私は普通のアコースティックギターを弾いているのだが、エレキギターにも魅力を感じる。特に野外で演奏するときは、場の状況によって音の大きさを調節する。同時に、ドラムもメリハリをつけて、効果的に響かせる。観客席で聴いていると、合成音もいいものだと思う。 そのように感じる人が多いせいか、今やポップミュージックの世界では、何らかの合成音が使われている。特にCDでは、録音技術の発達もあって、念入りなアレンジがなされている。ただ、ここで注意しなければならないのは、ポップミュージックについては、単なる騒音でしかないという声も聞かれることである。その反面、クラシック音楽は人気に衰えを見せず、和太鼓は人気を高めている。津軽三味線などにも、うっとりと聴きほれている自分に気づくことがある。 私は将来、音のアレンジによって新しい音楽を生み出したいと考えているが、バラエティーに富む音楽の世界にあって、伝統音楽の魅力も見失わないようにしたい。 (以上、約800字) |
◎ ここで話を切り替えているのがよい。 ← うっとりと聴きほれている人が若者にも多いようだ。 |
これからの音楽について、自らの抱負を述べているが、
なまじ評論家風の予測をするよりも、このほうが好感がもてる。
はじめの答案 | 添削例・諸注意 |
日本画であろうが、洋画であろうが、大きな美術展が開催されると聞くと、遠方であっても友人と連れ立って出かけて行く。そして、天才達の遺作を観るために長蛇の列に加わる。そうやって、歴史的な作品を観るための労力を私は惜しまない。しかし、同じ館内に併設されている「現代美術常設コーナー」には、たいていの場合、立ち寄らずに美術館を後にすることが多かった。 それは過去に経験した失望感からくるものだろう。私の数少ない経験においては、残念ながら感動を受けるような作品には出会えなかったのだ。「難解」を超えて「無意味」というのが、私の現代美術に対する印象であった。 しかし、ふと立ち寄った書店で目にした奈良美智の画集によって、私の現代美術への意識は大きく変わった。奈良美智の絵が美しいとは思わない。しかし、彼の描く少女から感じる強い孤独感と深い深い孤独の先にある精神の自由といったものに対する感動は、作家と同時代に生きている自分だからこそ、受けることができるものなのではないかと思う。例えば、ルノワールなどの印象派の絵も発表された当時には、私たちが現在観て感じるような穏やかなものではなく、革新的なものであっただろう。 作品が生まれる時には、時代の空気が大きく作用する。作品のもつそういった部分に対する感動は、同時代に生きる者の特権である。しかし、一方では、歴史の流れの中で何度もふるいにかけられて、なお残ってきた普遍的な美しさをもつ古典美術と違い、現代美術はスクリーニング前といったところもあって、駄作も多い。すばらしい作品に出会うためには根気を要する。しかし、これもまた同時代に生きる者の特権として、作家に対して是であれ、非であれ、自分の反応を返すことができ、作家が成長し研ぎすまされていくための作用の一端を担うことができるのである。現代美術のもつナマモノな面白さに興味は深まっている。 (以上、約800字) |
※ 「たいていの場合」か、「多かった」のどちらかを削除する。 ← ところが、ふと立ち寄った…… ○ 「美智」は「よしとも」と読むのだね。 ← 彼の描く少女からは孤独感が強く感じられ、その深い深い孤独感の先には精神の自由といったものが感じられる。その感動は、作家と同時代に…… ← 作品のもつ、革新的と思われる部分に対する感動は、 ※ 末尾の一行を、意味を明らかにした上で改行し、締めくくりとする。 |
見方に客観性がある。
表現を整えて仕上げとしよう。
書き直した答案 | 添削例・諸注意 |
日本画であろうが、洋画であろうが、大きな美術展が開催されると聞くと、遠方であっても友人と連れ立って出かけて行く。そして、天才達の遺作を観るために長蛇の列に加わる。そのように、歴史的な作品を観るための労力を私は惜しまない。しかし、同じ館内に併設されている「現代美術常設コーナー」には、たいていの場合、立ち寄らずに美術館を後にする。 それは過去に経験した失望感からくるものだろう。私の数少ない経験においては、残念ながら感動を受けるような作品には出会えなかったのだ。「難解」を通り越して「無意味」というのが、私の現代美術に対する印象であった。 ところが、ふと立ち寄った書店で目にした奈良美智の画集によって、私の現代美術への意識は大きく変わった。奈良美智の絵が美しいとは思わないが、彼の描く少女からは孤独感が強く感じられ、その深い深い孤独感の先には精神の自由といったものが感じられる。その感動は、作家と同時代に生きている自分だからこそ、受けることができるものなのではないかと思う。例えば、ルノワールなどの印象派の絵も発表された当時には、私たちが現在観て感じるような穏やかなものではなく、革新的なものと受け取られたであろう。 作品が生まれる時には、時代の空気が大きく作用する。作品のもつ革新的と思われる部分に対する感動は、同時代に生きる者の特権である。しかし、一方では、歴史の流れの中で何度もふるいにかけられて、なお残ってきた普遍的な美しさをもつ古典美術と違い、現代美術はふるいにかけられる前といったところもあって、駄作も多い。すばらしい作品に出会うためには根気を要する。しかし、これもまた同時代に生きる者の特権として、作家に対して是であれ非であれ、自分の反応を返すことができ、作家が成長していくための一端を担うことができるのである。 現代美術は、いわばナマモノであるだけに、それに対する私の興味は徐々に深まっている。 (以上、約800字) |
○ 奈良美智の絵はポップアートと呼ばれているのだね。 ◎ 古典に触れているので、現代美術を見る目に信頼が置ける。 ◎ これで、現代美術との関わりが分かりやすくなった。 |
⑤ 「興味のある美術家」
正式の課題は
「あなたが興味をもっている美術家について論じなさい」
となっている。
はじめの答案 | 添削例・諸注意 |
物事を始めるのには、いつも何かしらきっかけとなる出来事があるものだと思う。天才と呼ばれる人たちは、ひょっとすると物心ついた時には筆を握っていたり、弦を弾いていたりして、始まりなど何処にあるのか判らないかもしれないが、わたしのような凡人タイプは「感動」からスタートしたりすることが多いので、自分の創作活動の始まりを妙に明確に説明できたりする。 私の人形作りは、学生時代に学校の図書館で辻村ジュサブローの人形写真集との出会いに始まる。人形といえば、応接間あたりのガラスケースの中に入ったフランス人形くらいしか知らなかった私は、人形一体で絵画を見るような、長い物語を読んだような感動を受け、このような表現方法もあるのだと、人形に無限の可能性を感じ、夢中になった。 しかし、感動や憧れは曲者でもある。多くの人形作家の卵が集まる展覧会などに行くと、改めてそう感じることが多く、その度に自身を反省するよい機会にもなるのだが、どの作品も多くは誰に憧れて人形を作っているのかが明瞭なのである。そこから脱け出して、やっと一作家としてのスタート地点に立てるのだと分かっているのだが、なかなか難しい。 辻村ジュサブローは自ら確立したスタイルを易々と捨て、常に作風を変化させ続けている。生々しい性器を持った人形から、貝殻の形をそのまま生かして作られたデフォルメされた人形まで、抽象、具象、様々に変化し続けている。テーマも多種多様である。大家と呼ばれる作家の中には、作るものが全てどれもこれも同じといったような自分のスタイルに固執した人も多い。創作活動を続ける人にとって、卵であれ大家であれ、現在の殻を破り次の段階へと変化することは難しい。ファンとして、創作を志す者として、変化し続ける辻村ジュサブローの創作活動に対する興味は当分薄れることはなさそうである。 (以上、約800字) |
※ この段落の内容は削除する。理屈っぽいだけで、大して意味がないため。 次の段落の体験例から始めるとよい。 ← スタートすることが……(※「たり」の用法について、講評の「表記と表現」参照)。 ← ……知らなかったが、(※修飾語は短く。特に、主語にかかる場合は)。 ← ……絵画を見るような、あるいは、長い物語を…… ←※ 「作家の卵が出品する展覧会」ということかな。 ※ スタート地点に立つのは誰なのか。卵たちなのか自分なのか。また、何が「難しい」のか。 ※ 「貝殻の形をそのまま生かして作られた」「デフォルメされた」はややこしいので、どちらかにする。 ※ 「ファンとして」で改行して、締めくくり(結論)とする。 |
【 内容と構成 】 最初の部分に注記しておいたように、具体例から始めるとよい。また、辻村ジュサブローの写真集の内容がどんなものであったのか、これも具体的に示すとよい。そうすれば、何に感動したのかが分かりやすくなる。それをもとに、その後に見た作品の変化を、「多種多様」で済ませず、一例によってでもよいから具体的に示す。そうすれば、次々に創り出している姿と、それに対する「興味」の様子も浮かんでこよう。 【 表記と表現 】 ○ 「たり」は「〜たり、〜たり」という形で使う。したがって、4行目はよいが、7,8行目は不可。 ○ 就職部分は短くする。長くなるときは2文に分ける(第2段落の注記参照) |
書き直した答案 | 添削例・諸注意 |
私の人形作りは、学生時代に学校の図書館で辻村ジュサブローの人形写真集と出会ったことに始まる。私は、人形といえば応接間に飾られているフランス人形くらいしか知らなかったが、その写真集は一頁一頁が驚きの連続だった。人形たちはそれぞれに、ただ一体で樋口一葉や小泉八雲の物語の世界を表現していた。このような表現方法もあるのだと、人形に無限の可能性を感じ、夢中になった。 辻村ジュサブローは自ら確立したスタイルを易々と捨てて、常に作風を変化させている。生々しい性器を持った人形から、貝殻の形をそのまま生かして作られた人形まで、抽象、具象、様々に変化し続けている。テーマも、神話、古典、小説、干支、歴史と、多種多様である。また、置き人形や抱き人形にとどまらず、人形劇や自作の役者人形による舞台劇なども手がけ、常に意欲的に活動している。 大家と呼ばれる作家の中には、作るものが全てどれもこれも同じといったような、自分のスタイルに固執した人が少なくない。創作活動を続ける者にとって、新人であれ大家であれ、現在の殻を破り、次の段階へと変化することは容易ではない。地位を確立した者にとっては、ことさら困難であろう。 辻村ジュサブローの作り出すものは、一目見て「ジュサブローの作品だ」分かると同時に常に新しい。ファンとして、創作を志す者として、変化し続ける辻村ジュサブローの創作活動に対する興味は当分薄れることはなさそうである。 (以上、約700字) |
← ……感じ、それ以来ジュサブローに夢中になった。 ← 抽象、具象を問わず、その作品は様々に…… ← 次の段階へ飛躍することは ← ……者にとっては、現状を変えることはことさら困難であろう。 ← 常に新鮮である。 |
これで、辻村ジュサブローという人物も作品の傾向も分かりやすくなった。
⑥ 「興味のある彫刻家」
答案の筆者は前作と同一人である。書きぶりはどう変わっただろうか。
課題は、
「あなたが興味をもっている彫刻家について論じなさい」
となっている。
はじめの答案 | 添削例・諸注意 |
私が今最も興味をもっている「彫刻家」は与勇輝という人形作家である。彼の作る人形は「布の彫刻」と言われることもある。 数年前に行われた「新世紀人形展」での選考結果は、従来とは大きく異なる意外なものであった。「生き人形」と言われる類の作品が流行し、その大きささえも等身大に近づくほどに写実的で、多くの作家が写実的な表現へ突き進む流れの中で、「新世紀人形展」が選び出した作品は、極限までデフォルメされ、かろうじて人の形を残したオブジェであった。 選考の意図として、そういった人形作りの大きな流れに一石を投じたいという意図があったようだが、私には受賞作品は人形ではなく彫刻であったと思えてならない。この点について、人形と彫刻では何が異なるのかというと、それは私の中でははっきりしている。その作品に対した時に、観る者の内面が投影されているか否かという点である。人は人形に自分を映し、その中に生を感じ、時に愛し、時に恐れるのである。これに対し、彫刻は自立して存在し、美しさや生命力で我々に感動を与え、我々を圧倒するが、観る者の魂の侵入を許さぬ、自らの物語をもった物体として存在するのである。 その性質ゆえ、人形は美術品として扱われず、おもちゃや手芸に分類されることも少なくない。与勇輝の人形が布の彫刻と言われるのは技術の確かさからくるのである。彼の作品は観る者の投影がなくても、決して単なる脱け殻のヒトガタではなく、自身で世界をもって存在するのである。それと同時に、観る者の魂の進入を快く受け入れる器でもある。彼の作品は彫刻と人形の両面を持ち合わせ、かつての人形展では一人として実現できなかった二つの世界の融合を果たし、人形を愛玩具から芸術の高みへと近づけつつある。 与勇輝の限りない可能性に今後も注目せずにはいられない。 (以上、約800字) |
○ 「与勇輝」は「あたえ ゆうき」と読むのだね。 ← その人形展の選考委員には、写実的な人形作りの流れに一石を…… |
眼識といい表現といい、評論家そこのけである。
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⑦ 「暗誦と朗誦」
ある音楽大学の推薦入試の出題である。
学内選考用か公募用かは不明であるが、
課題は
「『暗誦』と『朗誦』について、あなたの考えを述べなさい」
となっている。
はじめの答案 | 添削例・諸注意 |
最近、人前で1人で大きな声を出して、何か文章を読んだり、歌の好きなフレーズを歌ったりすることがなくなってきている。昔、まだ小さい子どものときは、気ままに好きな絵本を読み上げたり、好きな歌を歌ったりしていたと思う。しかし今では、何か恥ずかしいという気持ちが先に立ってしまう。それというのも、詩や文というものは声を出して読むものではなく、学校の国語の授業で、意味を解釈するものだと思っているからだ。 学校の国語の授業で、教科書の文章を音読するとき、つっかえずに読むことができるのは数人で、ほとんどの子がつまったり、漢字が読めないせいもあって、区切り目をまちがえたりしていた。これは、ふだん文章に親しんでいないからだ。授業では文の解釈に多くの時間を充てているが、文章が意味のある言葉として頭に入っていないから、文章の意味を理解することができないのだ。改めて考えてみると、これは少し変である。というのは、音楽でなら、だれでも歌の意味が理解できるからだ。 私の学校は音楽を専門に勉強する所だ。年に2回、演奏の試験がある。この時、私たちは皆、楽譜を暗譜する。ピアノの場合なら、右手の音・左手の音、強弱や楽語など、楽譜に書かれていることは全て覚える。そして、何度も音を出して練習し、頭と体に曲を覚えこませる。音楽でこうしたことができるのだから、詩や文章の暗誦もできるだろう。楽譜を見て、音に出して弾くことと、詩や文を声に出して読むこととは似ていると思う。 現代の日本での詩や文の在り方は、何かもったいないように思う。テレビや新聞で、ふと目にしたり聞いたりした歌や詩が、いいなと感じて口ずさんでいるうちに、すっかり覚えてしまったという経験は、だれにもあることと思う。暗誦とはそんなに難しいことではないのだ。詩や文を、ただ学校内だけの勉強に終わらせず、もっと親しもうという方向にもっていくべきだと思う。今の学校の授業では、すぐに意味の解釈にもっていってしまうが、そのことがきっと今の日本人から詩や文を難しくて遠いものに感じさせているのだと思う。音楽の場合は、音を出してみることから始める。何度も音に出して弾いて、音になじんでいくうちにその曲が好きになり、親しみも湧いてくる。詩や文の朗誦でも同じであろう。まずは、詩や文を声に出してみることから始めるのが大切だと思う。 (以上、約1,000字) |
← 最近、私たちは人前で…… ← それというのも、歌はともかく、詩や文については声を出して…… ← 私が小学生のころ、国語の授業で ← 文章が言葉として頭に入っていないから、…… ← 曲の暗譜をする。 ※ 「……覚えこませる」と「音楽でこうしたことが……」の間に、音楽のこの方法のよさ(意義)を入れる。例えば、「いつの間にか、その曲を口ずさむようになり、何となく楽しくなる」いうふうなことを入れると、あとの内容が生きてくる。 ※ 「まずは、……」で改行して締めくくりとする。 |
暗誦の意義を入れるようアドバイスしたら、
次のような答案になった。
書き直した答案 | 添削例・諸注意 |
最近、学校や家での生活の中で、詩や名文を暗誦して人前で朗誦するような機会はあまりない。友達仲間の会話で出てくるのは、好みのお笑いタレントのギャグや漫画の決めゼリフなどである。それらは分かりやすいが、たいていはその場限りのものである。 学校の授業では、詩や名文というものは、一回通しで読んだら、あとは解釈をするだけとなっている。そのせいか、ノートにまとめた事柄はなんとなく覚えていても、詩や文そのものはあまり頭に残っていない。その詩や文の解釈が終わってしまえば、それ以降、もう一度声に出して詩や文を読んでみようという人はまずいない。これが音楽の場合だったら、どうだろうか。私の学校は音楽を専門に勉強する所だ。新しい曲の楽譜を与えられれば、音に出して何度も繰り返し弾いてみる。そうやって曲を覚えるとともに、よりよい演奏ができるように、さらに練習をする。練習を続けているうちに曲の暗譜をしてしまう。それを人前で演奏するのだ。 楽譜を見て音に出して弾くことと、詩や文を声に出して読むことは似ていると思う。また、両方とも、何度も繰り返すうちに頭と体にしみこんで覚えてしまうことも似ている。そうして覚えた曲や詩、名文は心に残り、心を豊かにしてくれる。例えば、自然の情景に接したとき、曲や詩の一節がぱっと浮かぶようなことがあれば、あるいは、人との会話の中で名文を織り交ぜて話せるようなことがあれば、なんと幸せなことだろうか。詩や名文を暗唱したり朗誦することは、決して日常生活から遠いものではない。詩の一節でも身についていれば、日常生活の様々な場面で、ささやかであっても幸せを味わえるであろう。 そのような暗誦文化が途絶えることのないよう、小さい時から音楽と同様、詩や名文に親しませ、声に出して読む機会を多くしたいものである。何度も繰り返し朗誦しているうちに、やがて詩や名文の意味も魅力もわかってくるだろう。暗誦とは、私たちの生活に潤いをもたらす、素晴らしいものだと思う。 (以上、約900字) |
← ……残っていない。解釈が終わってしまえば、……、それらをもう一度声に出して読んでみようということはまずない。(※ 人々一般の考えについての憶測は慎む)。 ← ……暗誦したり朗誦したりすることは ← そのような暗誦文化が日常生活に溶け込めるよう、小さい時から…… |
暗誦文化の華は「百人一首」であろう。
初めは意味が分からなくても、リズムによって覚えてしまうと、
折に触れ口ずさんでいるうちに、味わいが深まってくるようだ。
⑧ 「演劇の魅力」
東京学芸大学 芸術<芸術学・演劇>課程 前期試験
次の文章における「なまの演劇」の論旨を参考にして、演劇の魅力についてあなたの考えを述べなさい。ただし、次の5つの事項について、必ず文中で言及しなさい。(1,600字以内) 1.劇作家 2.演出・演技 3.観 客 4.文 化 5.日本の伝統演劇 |
今日では反演劇(アンチ・テアトル)が演劇の主流となっている。新鋭作家の刺激的な作品によって、演劇は社会的重要性をもつ問題になった。文明地域では市民劇場が創設されるなどして、演劇は社会事業に不可欠なものともなっている。 映画などの機械化されたマス・メディアに対立するものとして重要な問題となっているのが「なまの演劇」である。なまの演劇のもっている要素は、一つは「なまの演技者となまの観客との触れあい」で、もう一つは「演出家は複数の選択肢を提示し、観客はその中から選択し助言もできること」である。これらの要素は、マス・メディアが閉ざされたシステムであるのに対し、開かれたシステムとなっている。 このシステムは行動への呼びかけにも用いられ、東ヨーロッパ諸国では社会問題を明らかにし、政治問題に発展する契機となった。また、このシステムでは俳優と観客が深い次元のコミュニケーションに没入できるが、ここには演劇の起源が見出される。 (M・エリスン『現代演劇論』小田島雄志訳より) |
二度目の答案 | 添削例・諸注意 |
エリスンの文章からは、演劇が社会の改革や商業の発展に及ぼした影響の大きさや、時代ごとに変化しながらも常に人々の娯楽として必要不可欠だったことなど、演劇の偉大さが伝わってくる。映像の劇が普及した今も、生の演劇には他のものに代えがたい魅力がある。 私は今まで、何度かミュージカルや舞台劇を見たが、どの劇も私の心の中に強い印象を残している。真っ暗な劇場の座席に座り、目の前で繰り広げられる演劇を見ていると、まるで違う世界に引き込まれたかのような気持ちになる。これは、映画やテレビなど、平らな画面に映し出された演劇からは感じ取ることのできないものだ。 演劇は遠い昔から世界中に存在していた。そのスタイルは、国ごとの文化によって異なっている。私が住んでいたボリビアには、ヨーロッパスタイルの演劇もあったが、それはスペインに支配されていた時代に入ってきたもので、ボリビアの伝統的な演劇は祭りの時などに披露される狩りや神をテーマとしたものである。それぞれの役に合わせて衣装やかぶり物を身に付け、台詞はないが、民族音楽に合わせて、歌や踊りで短いストーリーを展開する。人々はこのような劇を見て、特別の日の祭りを楽しみ、豊かな暮らしを祈る。 日本にも伝統演劇がいくつかある。その中で代表的なのが歌舞伎だ。歌舞伎役者は華やかな衣装を身にまとい、独特の繊細な動きで観客を魅了する。忠臣蔵のように、何百年も前から変わらず上演されているものがたくさんあり、演出方法も変わらず受け継がれている。西洋流の演劇が主流になった今も、日本が誇る伝統演劇の存在は大きい。国際交流が盛んになった現代では、歌舞伎を海外で上演したりもしている。海外の劇が日本で上演されることも多く、演劇による異文化交流が行われている。こんなことが行われるのは「なまの演劇」の魅力があればこそであろう。 劇作家が一つの舞台のために戯曲を書き下ろすのは舞台で自分の作品を上演したいからであろう。舞台の場合、映像のように本物の背景を使うことはできない。しかし、リアルでなくても、セットや衣装で表現した雰囲気は観客に強い印象を与える。それは、ひとえに演出の力による。そのため、自ら演出を行う作家もいる。劇作家にとっては舞台という空間が必要なのだ。 演出と同様、舞台で不可欠なのは俳優の演技である。観客から見た舞台の最大の魅力は、生身の人間が目の前で役を演じていることだろう。映像からはなかなか伝わってこない細かいしぐさや息づかい、何より直接聞こえてくる声は観客を舞台に集中させる。俳優もまた、映像の演技のように短いシーンごとに演じるのではなく、始めから終わりまで役になりきって演じなければならない。そこから迫真の演技も生まれてくる。また、大勢の観客の注目を浴びていることが俳優に大きな刺激を与える。自分の演技に拍手や驚き、笑いなどの反応があると、俳優と観客との間には一種のコミュニケーションのようなものも生まれるのだ。 演劇の魅力は数え切れないほどあるが、最大の魅力は、見るほうも演じるほうも、生身の人間同士が一つの劇場という空間の中で向き合っていることだと思う。そこでは「なまの感動」を実感できるのだ。人々はこれからも「なまの演劇」でしか味わうことのできない感動を求めて舞台を見続け、また、創り続けることだろう。 (以上、約1,600字) |
← ……平らな画面に映し出されたドラマからは ← 忠臣蔵のような、百年以上も前から ← しかし、本物でなくても、セットでじゅうぶんリアルな表現はできる。それは、ひとえに…… |
条件の5つの言葉がうまく織り込まれている。
はじめの答案では二、三、四段落の内容が五、六段落の位置にあった。
入れ替えてみたのだが、話の流れはどうであろうか。
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⑨ 「芸術家が作品を通して表現するもの」
東京学芸大学 芸術文化<表現コミュニケーション>課程 前期試験
次の文章を読んで、「芸術家が作品を通して表現するもの」について、あなた自身の考えを650字以内(句読点を含む)で論ぜよ。芸術一般について論じても、あるいは美術・音楽・舞踊・演劇などの特定のジャンルを選択して論じても構わない。 ……………………………………………………………… イサドラ・ダンカンはこう語ったそうだ。「この踊りの意味が口で言えたら、踊る意味がなくなるでしょうね」。 (中略) イサドラ・ダンカンに限らず、芸術家が伝えようとしているのは、むしろこんな内容のメッセージではないだろうか——「部分的に無意識なメッセージを私なりに作ってみました。これを通して部分的に無意識なコミュニケーションをやってみませんか」。あるいは、——「これは、意識と無意識の結合領域(インターフェイス)に関するメッセージです」。 (G.ベイトソン『精神の生態学』より) |
はじめの答案 | 添削例・諸注意 |
イサドラ・ダンカンの踊る意味とは、「言葉では伝えることのできないものを表現すること」なのだと私は考える。そしてそれは、踊りに限らず、どの芸術表現についても言えることだと思う。 芸術表現とは、そのような言い表すことのできない思いを、表現して伝えるために生まれたといってもよいのではないだろうか。 世界中、どの民族の暮らしの中にも、遠い昔から絵や歌、踊りは存在する。それらは、昔の人々が何とか自分の感情や思いを表現して、皆と共感し合いたいという思いから産み出されたものなのではないだろうか。 私が住んでいたボリビアにも、インディオと呼ばれる原住民族がいて、何度か彼らの音楽や踊りを鑑賞する機会があった。私は、特に彼らの音楽に感動した。民族楽器を使った独特の音調からは、何ともいえないものが伝わってくる。言葉でいえば、生きることに対する強い意志のようなものだろうか。しかし、そこにはやはり音楽からしか伝わってこない、言葉では言い表すことのできないものがある。その感情は、文化も歴史も全く異なった国で育った私の心にもしっかりと伝わってきたのだ。たとえ彼らから直接話を聞いたとしても、きっとこのような気持ちになることはなかっただろう。 芸術表現には様々なものがあるが、どれも作者が強い感情をもって作ったものならば、人は頭ではなく、心でその思いを感じ取ることができるだろう。 芸術家が作品を通して表現するものとは、言葉では伝えきれないけれど、それでも伝えたい思いや感情なのではないだろうか。 (以上、約700字) |
※ この段落の内容は前の段落で述べたことの繰り返しなので、全文を削除する。字数調整のためにも。 ← ……産み出されたものと思われる。(※ 反語表現は、自己の判断を他人に委ねるきらいがあるので、断定するか、それができなければ「と思われる」ぐらいにして、判断を自己に引き寄せるようにする)。 ← ……感情なのだと考えられる。 |
では、字数調整を兼ねて、書き直しておこう。
書き直した答案 | 添削例・諸注意 |
イサドラ・ダンカンの踊る意味とは、「言葉では伝えることのできないものを表現すること」なのだと私は考える。そしてそれは、踊りに限らず、どの芸術表現についても言えることだと思う。 世界中、どの民族の暮らしの中にも、遠い昔から絵や歌、踊りは存在する。それらは、昔の人々が何とか自分の感情や思いを表現して、皆と共感し合いたいという思いから産み出されたものと思われる。 私が住んでいたボリビアにも、インディオと呼ばれる原住民族がいて、何度か彼らの音楽や踊りを鑑賞する機会があった。私は、特に彼らの音楽に感動した。民族楽器を使った独特の音調からは、何ともいえないものが伝わってくる。言葉でいえば、生きることに対する強い意志のようなものだろうか。しかし、そこにはやはり音楽からしか伝わってこない、言葉では言い表すことのできないものがある。その感情は、文化も歴史も全く異なった国で育った私の心にもしっかりと伝わってきたのだ。たとえ彼らから直接話を聞いたとしても、きっとこのような気持ちになることはなかっただろう。 芸術表現には様々なものがあるが、どれも作者が強い感情をもって作ったものならば、人は頭ではなく、心でその思いを感じ取ることができるだろう。芸術家が作品を通して表現するものとは、言葉では伝えきれないけれど、それでも伝えたい思いや感情なのだと考えられる。 (以上、約650字) |
◎ 原住民の音楽の例は出色。プリミティブなものの中に共感できるものがあれば、それが芸術の本質であることが示唆されるからだ。 |
⑩ 「再表現の独創性」
東京学芸大学 芸術文化<表現コミュニケーション>課程 前期試験
芸術表現においては、一次的発信者である原作者(作家、作曲家、劇作家など)が自作品をとおして受容者(観客、聴衆、読者など)と直接的にコミュニケートする場合もあるが、原作者以外の人物が二次的発信者(指揮者、演奏者、編曲者、演出家、俳優、振付師、コレオグラファー、ダンサー、批評家、研究者など)として、作品を演じたり、演じさせたり、あるいは、解釈することにより再表現し、受容者とコミュニケートする場合もある。 後者の場合の「再表現」の独創性はどのような点にあるか、具体的な例を一つ以上あげて、650字以内(句読点を含む)で論じなさい。 |
二度目の答案 | 添削例・諸注意 |
私は、映画「レ・ミゼラブル」見た後、その原作を読み、とても驚いた。映画を見て感じた印象と原作がかなり違っていたからである。とても長い原作を、映画ではわずか2時間余りで完結させている。そのため、様々な場面が省かれており、話の展開をよくするために原作と内容を変えている所もたくさんある。私が一番驚いたのは、原作と映画の終わり方の違いである。 原作では、主人公のジャン・バルジャンは最後まで自分が囚人であったことに罪の意識をもち、自分の娘のようにかわいがっていたコゼットが嫁に行った後、自ら身を引き一人寂しく暮らすことを決める。しかし、彼の素晴らしさに改めて気づいたコゼットとその夫は、最後にジャン・バルジャンに会いに行き、彼が息を引き取るのを見守る。 映画では、ジャン・バルジャンを囚人時代から追い続けていた刑事が、彼の人格に心を動かされ、彼の前で自殺する。ジャン・バルジャンはやっと自由になったことを喜ぶかのように、清々しい笑顔で歩き出し、ここで映画は終わる。 こんなにも原作と映画に違いがあるのは、再表現者である演出家が原作から感じ取って解釈したことを自分なりに表現しているからだ。原作を知っている人の中には、このような再表現を好まない人がいるかもしれない。しかし、これによって、原作の持ち味を引き出したり、より高めたりしていることもあるだろう。 原作の意図を尊重して、よりよい作品に作り変えていくところに再表現の独創性があると私は考える。 (以上、約650字) |
※ 題名は『』に入れるほうがよい。 ← 話の展開を早めるためにか、原作と…… |
具体例がよく、原作と映画との比較が的確なので、
よい結論が導かれていると言える。
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追って⑪、⑫を掲載します。期日、内容は未定です。
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