江戸城天守台


東日本大震災


東京・多摩地方、
および
その周辺での体験記



— その2 —

<第2部>
「地震や津波の起こるわけ」



<第3部>
「ふだんの生活への影響」
− もくじ −



<第1部>
「3月11日のこと」
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「地震や津波の起こるわけ」


ふだんは考えたこともないことを
大震災をきっかけに考えることになった。

と言っても、小学生には少々難題であった。
それでも、だれそれの話を聞きながら、
小学生新聞やインターネットで調べていった。
この情報収集の中で、
中心になったのは中学生の理科の教科書である。

そのためか、みんなの書いたものは
だいたい似たものになった。
そこで、ここでは
小学生、中学生各1人の作文を紹介するにとどめよう。

学年は大震災発生時のものであるが、
書いたのは、学年が一つ進んでからである。


1.海斗くん(小4)
書き直した作文 添削例・諸注意
 地震には大きく分けて二つの種類がある。一つはプレート型で、もう一つは断層型だ。
 日本の周辺には「ユーラシアプレート」、「北アメリカプレート」(大陸プレート)と「フィリピン海プレート」、「太平洋プレート」(海洋プレート)がある。西日本はユーラシアプレートに、東日本は北アメリカプレートに乗っている。プレートの厚さは約100キロメートルある。
 プレートどうしはいつも押し合いへし合いしていて、海洋プレートは大陸プレートの下にもぐり込もうとしている。大陸プレートの先端が海洋プレートに引きずり込まれていくと、しだいに先端が曲がって、ある程度までくると、耐えられなくなってはね上がる。そのとき地震が起こる。同時に、それが海底で起こると、はね上がったプレートに海水が持ち上げられ、大きな波になって陸に押し寄せる。今回の東日本大震災はこのようにして起きた。はね上がったプレートが南北400キロメートルに広がっていたため、宮城県を中心に岩手、青森、福島、茨城、千葉にまで津波が押し寄せた。
 これがプレート型地震で、もう一つは断層型地震である。大地は常に四方八方から圧力を受けている。大地のどこか一点に圧力が集中すると、断層が上下や前後にずれる。このとき地震が起こる。阪神大震災は断層が上下にずれて起きたものだった。このときは震源が地中だったので、津波は起きなかった。
















○ この大震災は、放送局や新聞によっては、はじめは「東北関東太平洋岸大震災」とも呼ばれていたね。

海斗くんは調べては書き、書いては直しして
こんなところに落ち着いた。
最後に参考にしたのは海路くん(中Ⅰ)や拓生くん(中Ⅰ)の
ものである。
両君には海斗くんに花を持たせてもらった。

地震や津波のメカニズムについては
海斗くんの理解でじゅうぶんであろうが、
もう一つ、
学習の成果を紹介しよう。
(分類用語の違いは参考資料の違いによる)。

2.日菜さん(中2)
はじめの作文 添削例・諸注意
 3月11日に三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の地震が起き、東北関東の太平洋沿岸で7メートル以上の大津波も発生しました。
 地球の表面はプレートという、厚さ100キロメートルほどの固い岩盤で覆われています。プレートは地球全体で十数枚に分かれていて、年に数センチほど動いています。プレートどうしが近づく所ではぶつかり合うなどして力が加わり、地震のもとになる力が蓄えられます。
 日本列島はユーラシアプレートと北アメリカプレートの大陸プレート、太平洋プレートとフィリピン海プレートの海洋プレートの4つのプレートが衝突する場所にあります。そのため、世界的に地震の多い地域になっています。
 地震は、大きく二種類に分かれます。一つは「プレート境界型」です。海洋プレートが大陸プレートの下に沈み込むときに、大陸プレートの先端が巻き込まれ、それが限界に達したときに反発して跳ね上がります。そして、地下の岩盤が破壊されて地震が発生します。この地震には数十年から百年の周期性があり、マグニチュード8クラスの巨大地震になります。この時に海では、海底が急に盛り上がって、その上の海水全体が持ち上げられ、海面が盛り上がって回りに広がり、津波が起きます。今回の東北地方太平洋沖地震はこのタイプです。
 もう一つは「内陸型地震」です。プレートの沈み込みで生じた力は、プレート境界から離れた日本列島の下にも働きます。その力は地中を伝わって断層を刺激します。断層とは、ひび割れのことです。今から数十万年前までにできた断層のうち、再びずれて地震を起こす可能性のあるものを、特に活断層といいます。内陸型地震は、プレート境界型地震と比べて規模は小さいのですが、地下の浅い所で発生するため、大きな揺れとなります。1995年の阪神大震災はこのタイプの地震でした。
 私は、今回の地震を体験して、自然の力はすごいと思いました。このような地震がいつまた起きるか分からないので、供えだけはしっかりしておきたいと思います。



























← ……離れた所、例えば日本列島の下にも……


大震災の1年後ぐらいに、巨大津波についての詳しい研究結果が発表された。
それによると、
初めに盛り上がった海水が、岩盤の2次、3次のはね上がりによって
次々に押し上げられ巨大化していったということである。

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「ふだんの生活への影響」

大震災では生活に打撃を受けるというほどの深刻なものはなかったが、
それでも、生徒諸君には初めて体験するような、生活への影響があった。

体験には共通することがらも多いが、
それぞれに状況も印象も異なっている。

タイトルは、作文の中心となっていることがらに対して付けたものである。
例によって、
学年は地震発生時のもので、書いたのは次の学年にかけてである。


も く じ
電話が不通  (中Ⅰ海路くん) チェーンメール   (小6 さらさん) 
貴重なパン  (小6 萌香さん) 計画停電      (小5 光亮くん))
牛乳買い   (中Ⅰ 太一くん) 福島からの避難  (中2 夏実さん)
お米探し    (小5 樹里さん) 10 節電         (小5 咲歩さん)
給食が中止  (小5 三鈴さん) 11 放射能汚染水   (小4 海斗くん)    
ガソリン不足 (小5 咲歩さん) 12



「電話が不通」 (中Ⅰ 海路くん)
 3月11日に起きた東日本大震災では、主に3つの影響がありました。
 1つ目は、スーパーでの品不足です。パンや牛乳など、普段からよく食べるような品がスーパーやコンビニの商品棚に全くといっていいほどなかったことです。特に、牛乳が好きな僕にとってはとてもつらい毎日でした。お米は、三重県に住んでいる祖父達が急便で送ってくれました。
 2つ目は、電話回線が混雑し、電話がかけられなかったことです。当日は、都心で仕事をしている父の安否確認がとれなかったり、何日かたってお米を送ってくれた祖父達へお礼の電話がかからなかったりしました。
 3つ目は、計画停電があったことです。被災地の東北に電力を供給するために、停電が実施されました。家の伝記が止まると、多くの不便なことがありました。停電が起きる前に風呂をわかして入ったり、魔法瓶にお湯をわかしておいたりしました。
 このように、震災の影響で、身の周りに様々なことが起こりました。地震をなくすことはできないけれど、東日本と西日本で互いに電力を供給できるようにしたり、どんな時でも食べられるレトルト食品などを数多く備蓄しておくことが大切だと思います。








← 電話がかからなかったことです。










← 電力を供給できるようにすることや、


書きたいことがいろいろあっても、作文としては、
主なものを3つぐらいにしておくのがよい。


「貴重なパン」 (小6 萌香さん)
 大地震のあった次の日、スーパーへ行ってみると、牛乳やパンが全部売り切れていました。トイレットペーパーやティッシュペーパーもなく、買う物はほとんどありませんでした。
 別のお店に行くと、食パンがあったので、2きん買おうとしてレジに並んだら、レジのおばさんが
「食パンは1人1斤なんです」
と言って、1きん抜いてしまいました。とてもびっくりしました。
 うちではちょうどトイレットペーパーが切れていたので、とても困りました。しかたがないので、代わりにティッシュペーパーを使いました。ティッシュは5箱くらいあったので、 なんとか間に合いました。その次の日からトイレットペーパー探しをして、3日目ぐらいにお母さんがとなりの駅前のスーパーで手に入れてきました。ふだんは別に気にしないでトイレットペーパーを使っていましたが、なくなってみると、とても不便で、お母さんがトイレットペーパーをかかえて帰ってきたときは、ほっとしました。
 お父さんはパンがとても好きで、毎朝バターやチーズをのせて4枚ぐらい食べています。地震の次の日は会社が休みだったので、おなかがすいていると言って、買ってきたパンを1きん全部食べてしまいました。こんなことでも、私たち子供は影響を受けました。

こんなほほ笑ましいこともあったのだ。
家庭の和やかさがしのばれる。

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「牛乳買い」 (中Ⅰ 太一くん)
 大地震が起きてから2日後に、姉と二人でスーパーへ行きました。その日は休日で、部活もなかったので、僕は強引にお供をさせられました。
 そのスーパーは10時に開店するので、僕たちは9時30分に行きました。僕たちは前から4番目ぐらいに並びました。 20分ぐらいして後ろを向くと、けっこう人が並んでいました。中に入るとき、姉が「牛乳は1人につき2本だそうよ」と言いました。僕の家では、牛乳を4本買わないと、すぐになくなってしまうので、僕が連れてこられた理由がようやく分かりました。牛乳は無事に4本買えました。ほかにヨーグルトを買って帰りました。
 その日は時間が早かったので、スーパーの棚には普段どおりいろいろな物がありましたが、友だちの話によると、パンはすぐになくなり、その次にカップめんがなくなり、トイレットペーパーやティッシュペーパーはお昼までになくなったそうです。、乾電池がスーパーにもホームセンターにもなかったということです。
 僕の家では普段から買い置きをしているので、牛乳のほかは、食べ物も明かりも困りませんでした。買い置きがなくなるころには、スーパーにもホームセンターにも品物がそろい始めました。

「買い置き」は、ふだんどこの家でもしていることであって、
もちろん、「買い占め」とは異なる。


「お米探し」  (小5 樹里さん)
 大地震の次の日、食べ物が不足していたため、母とパンやお米、牛乳、ヨーグルト、それに、トイレットペーパーなどを買いに行きました。
 生協のスーパーのとびらが開いたとき、たなには何ものっていませんでした。ふだんは、入ってすぐのたなにお米がのっているのですが、なかったので、「もしや、ほかのものも」と思って、奥のほうに行ってみたら、トイレットペーパーも何もなしでした。買うものが何もなかったので、2軒目のスーパーへ行きました。そこもガラ−ンとしていて、たなには洗剤などのほかには何ものってませんでした。そこで、3軒目は立川の生協に行きました。今までは1軒目で何でも買えましたが、3軒目でやっとパンとトイレットペーパーが買えました。お米は2kgの小さいのが1ふくろだけあったので、それを買いました。でも、2kgではすぐになくなってしまい、3日間ぐらいはご飯のない生活をしました。
 お母さんはそれから毎日、いろいろなスーパーに電話をかけました。国分寺の生協、いなげや、マルエツ、立川の生協、リンコスなどに1日も欠かさず電話をかけました。すると、3日目に奇せきが起こりました。生協に電話をしたとき、「今日お米が入荷しました」と言われたので、急いでしたくをして、1人で車で出かけました。帰ってきたときは「へとへと」と言いながら、「お米をゲットしたよ」と言いました。5kg入りのふくろを2つ持っていました。
 なぜいろいろな物が不足しているのか、私は5日目ぐらいの夜、パソコンで調べてみました。すると、例えばパンについて、小麦粉は倉庫にあるのですが、機械が壊れて作れなかったり、道路がこんでトラックで運べなかったりしたためということでした。
 もう1つの不足している理由は、だれかが買い占めをしているためでした。そういう人がいるから、みんなの生活がおかしくなったのだと思います。
 買い占めはいけません!











※ 立川は西隣の市。


















◎ よく調べたね。

「買い占め」の様子にはすさまじいものがあった。
「第1部」のフッター(最下段)の写真、
および、このページのフッターの写真参照。

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「給食が中止 」 (小5 三鈴さん)
 大地震のあった1週間後、スーパーへ買い物に行ったとき、牛乳や納豆、カップラーメンのたなに、「1家族1個(1本、1パック)とさせていただきます」という、はり紙がありました。でも、たなはすべて空でした。そこで、ほかのスーパーをまわると、5けん目くらいに牛乳がありました。品物が入ったばかりのようでしたが、そのたなには「1人1本までとさせていただきます」と書いてありました。その時は兄といっしょだったので、2パック買えました。
 スーパーだけでなく、学校でも牛乳が届きませんでした。そのせいで、地震があったのは金曜日でしたが、次の月曜日から授業は午前中だけとなり、給食なしで帰ることになりました。私はほんとうにびっくりしました。まさか給食にまで影響が出るとは思ってもいないことでした。
 テレビのACのCMでも、注意のようなことをしていましたが、むやみやたらに買い集めている人がいるので、みんなが混乱しているのではないかと思います。しかし、神奈川県のおばあちゃんの家に行って、混乱しているのは東京だけではないかと思いました。おばあちゃんの家の冷蔵庫には牛乳も納豆もあったので、おばあちゃんに「なんで」と聞いたら、「何がおかしいの」と逆に聞かれました。東京のスーパーのことを話したら、びっくりしていました。東京の人は地震の影響を大げさに考えすぎなのではないかと思いました。
 テレビでは、今はふつうのアニメやバラエティー番組も再開されましたが、震災から2週間くらいの間はニュースだけ、それも震災のことだけしか放送されていませんでした。















← ACジャパン(公共広告機構)










◎ こういうことも、記録として大事なのだね。

神奈川と東京の違いは何だったのだろう、
考えてみるに値する。


「ガソリン不足」 (小5 咲歩さん)
 東北関東大震災によって、ふだんの生活への影響が出ています。例えば、パンがなかったり、ガソリンが不足したりしています。その中で、わが家にとって影響の大きかったのは、ガソリンです。ガソリンが一気になくなりそうになりました。
 ある夜、母がガソリンを入れにガソリンスタンドへ行きました。私が父と別の車で5分くらい送れて行くと、並んでいる母の車の前のほうには10台くらい、後ろには50台くらい並んでいました。たくさんの車のライトが遠くまで続いていました。それを見て、父は引き返しました。
 このように、地震が起こると、こんな影響も出るのだなと思いました。
○ 当初、大震災は局によってはこんなふうに呼ばれていたね。

品不足について、ちょっと不思議に思われたのは、
納豆の棚に「お一人1点限り」という張り紙が、
けっこう長く付いていたことである。
太一くん(上記「牛乳買い」の中1生)によれば、
ふつうの状態に戻ったのは1か月後であったという。

納豆の出回るのが遅れたのは、例えば水戸納豆の場合、
震災で機械が壊れたのに加え、、
パックのラベルを依頼していた福島の印刷工場が
もっと大きな被害を受けていて、復旧に時間がかかったため
ということである。

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「チェーンメール」 (小6 さらさん) 
 大震災のあった翌日から、授業が中止になりました。校舎などの建物の点検ができていなかったからです。3月24日の卒業式も中止になりました。
 でも、卒業式がないのはかわいそうだという、お母さん方の要望で、卒業証書を受け取りに行くことになりました。学校へは、あの巨大地震以来、2週間ぶりでした。9時に正門に集合しました。生徒たちも親も先生方も、みんな緊張している様子でした。校舎に入れないので、事務室の前で一人一人校長先生から証書を受け取りました。
 私が習っているバレエの教室は、4月まで休みになってしまいました。それまで週6回、欠かさず行っていたので、バレエがないと暇で、退屈でした。友達に聞いても、みんな習い事の教室が休みになってしまっていて、することがないと言っていました。
 私の家の近所のスーパーマーケットは、地震の後1週間くらい休みになってしまったので、食べ物が不足してきました。特に、パンと牛乳がなくなりました。携帯電話にはチェーンメールがたくさん来ていました。例えば、「東京ガスのガスタンクが爆発したので、雨の時は必ずカッパとカサを持っていて下さい。これは、父の友だちが東京ガスで働いていて、その人が言っていたことです。できるだけ多くの人に教えてあげて下さい」というものなど、たくさん来ました。ほとんどがデマでした。
 計画停電が始まり、いつ電気が消えてしまうのか分からないので、ドキドキしながら待っていました。最初は楽しんでいましたが、電気がつかないと周りが見えないので、だんだん不便だと思うようになりました。



























← 最初は停電を楽しんでいましたが、

この作文は、実際は中1になってから書いたものである。
作文の終わりには、
「4月になって、入学式は無事に行われました」とある。


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「計画停電」 (小5 光亮くん))
 大震災の次の日から、スーパーマーケットの品物がどんどんなくなっていきました。特にパン、牛乳、お米、豆腐、納豆、トイレットペーパー、電池などです。お母さんによると、開店まで並んだり、入場制限になったりして、大変だったそうです。
 地震の2、3日後から計画停電が始まりました。昼の停電のときはそんなに変わらなかったけど、夕方や夜になると、ご飯が食べづらく、トイレに行くのは手さぐりで不便でした。だけど、食べるときとトイレに行くとき以外は楽しかったです。暗い中で、妹とふざけていました。明かりがついたときは、いきなりだったので、びっくりしました。トイレに行くときに、図工の時間に作った卵型のかい中電灯をためしてみました。スイッチを入れると、にじのように色が変わります。けっこう明るくて役に立ちました。
 地震の2週間後くらいまでは、余震で机の下に入ることもありましたが、だんだん慣れてきて、もうそんなに気にしなくなりました。
 大きな地震があると、ふだんの生活が変わることがわかりました。もっと大きな地震があったら、どうなるのだろうと思いました。
 地震に備えてリュックを買っておいたので、地震の後、中を見ると、かい中電灯やラジオ、ビニール袋、包帯と傷薬のほかには、食べ物は何も入っていませんでした。これではいけないと思って、カンパンやカップラーメン、それに、ペットボトルの水を買ってきて入れました。












← ……かい中電灯のことを思い出し、ためしてみました、スイッチを入れると……、

いろいろなことが盛り込まれている。
タイトルを「計画停電と非常用リュック」とするとよいかもしれない。

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「福島からの避難」(中2 夏実さん)

 3月11日に私たちがカラオケの部屋に閉じ込められていた頃、東北地方では大津波が押し寄せていました。
 次の日の朝4時半に帰ってきて、午後4時までずっと眠っていました。バレエの練習があるのも忘れていました。母から、休みの連絡があったと聞いて、ほっとしました。その日はいろいろな友達に、だいじょうぶだったことをメールで知らせて終わりました。
 その次の日の日曜日、いろいろな人から、コスモ石油についてのチェーンメールが送られてきました。それには、「コスモ石油の千葉製油所が火災を起こし、首都圏では化学薬品の含まれた雨が降るかもしれないので、レインコートとカサの使用をお願いします」と書かれていました。しかし、これはうそでした。地震で被災地の人や多くの人が困っているというのに、こんなチェーンメールを作る人の神経が分からないと思いました。
 14日の月曜日、父と母は仕事に行きました。私は姉と朝早くから食料の買い出しに出かけました。コンビニには、どこも、かなり遠くまで行っても何もなく、スーパーの開店を待って、やっとパンとパスタを手に入れました。お米はどこにもありませんでした。
 その頃、祖母の家に福島のいわき市で被災した親戚がやってきました。祖母の姉と母の姉です。家が古くて壊れそうだからということでした。いわきの親類の中には津波で家が流された人もいたそうです。2〜3週間して、二人は家の片づけに帰りました。大きな余震が続いているということなので、帰ってもだいじょうぶなのかなと、とても心配になりました。
 被災地では、避難生活を余儀なくされている人がたくさんいます。一刻も早くみんなが安心して暮らせるようになってほしいと思います。










○ コスモ石油の火災自体は実際にあったんだよね。



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10「節電」 (小5 咲歩さん)

 4月の中ごろ、国分寺駅でエスカレーターが止まっていました。わたしは節電のためなのだなあと思いました。エスカレーターが止まっていたので、みんな階段を上っていました。少ししんどいけれど、それはよいことだと思いました。健康によく、体力もつくからです。特に、太っている人は、エスカレーターが動いているときでも乗らないで、階段を上るとよいと思いました。
 また、電車の中でも節電していました。本を読む人にとっては、少し暗いかもしれませんが、地球にとってはとてもよいことです。わたしは、大地震が起こる前から節電をしておけばよかったなあと思いました。だれもいない部屋の電気をつけっぱなしにしていたり、エアコンの温度が低すぎたりしたことを反省しました。
 一人が節電してもたいしたことはありませんが、大勢の人が節電すれば大きな量になるでしょう。わたしはその一人として、節電を心がけたいと思います。 


駅やデパートなどが照明の明るさを落としていたころ、
あるフランス人が「ああ、パリと同じくらいになった」と言ったという記事が、
新聞に出ていた。
暗いと思っても、それに慣れてしまえば、不便とは思わなくなるようだ。
そんな経験をしてみると、
明るさが元に戻ったスーパーなどでは、無節操だとの思いをぬぐえない。

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11「放射能汚染水」 (小4 海斗くん)

 ぼくは大地震の2,3日後にスーパーに行きました。パンやカップラーメンのたなはほとんどからっぽでした。ポテトチップスなどもなかったです。買いだめする人がいるので、なくなったのだと思いました。その日は、パンは買えませんでしたが、カップラーメンが少し残っていたので、まずそうでしたが買いました。
 5日ぐらいたって、計画停電がありました。停電のとき、時間を過ぎても電気が消えなかったので、「今日は停電が中止されたのかな」と思っていると、いきなり電気が消えました。真っ暗で何も見えませんでした。停電になってから15分くらいたって、することが何もなかったので、ねました。
 3週間くらいたって、水道水から放射線が計測されて、東京23区のほか、武蔵野市や三鷹市とともに多摩市でも、赤ん坊に飲ませてはいけないという知らせが出ました。スーパーへ行くと、水は売り切れでした。ジュースはたくさん残っていました。水を買いたかったのに、水を売っていなかったので、こまりました。 
 でも、飲んではいけないのは赤ん坊だけだったので、家ではふだんと同じように水道水を使っていました。


海斗くんは多摩市に住んでいる。多摩市は多摩川の南にある。
武蔵野市や三鷹市は多摩川の北にあって、23区の西端に接している。
水道水に放射線が計測されたのは、
東京の東端・葛飾区の金町浄水場においてであった。

水道水は多摩地方から都区内に送られているとばかり思っていたが、
都内から多摩のほうへ送られてもいたのだ。
汚染水の一件は、ふだんは分からなかったことを知る機会ともなった。


東日本大震災による災害は、東北太平洋沿岸という一地域の災害ではなく、
日本の、千年に一度の大災害であった。
第1部、第3部の作文は、その大災害の一端の記録である。

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大震災後のホームセンターの棚

大震災5日後(3月16日)の、道場の近くのホームセンターの棚