道場日記抄−2019年−
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−2019年− Jan.31 <石庭もどき> Jun. 1 <お年賀> −2018年− Dec.27 <火の用心> Nov.29 <わかったつもり> Nov.1<ビワの木の物語> Oct.4 <秋刀魚の味> Aug. 2 <読書感想文> Jun,28 <今月の手紙> Jun.7<音読> May 18<「モヤモヤさまぁ〜ず」> Apr.5<生きものガーデン> Mar.1<国語力> Jan.18<八ヶ岳散歩> Jan.1 <お年賀> |
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道場の教室へは庭から入る。庭といっても、写真のごときである。わずかな取り柄は、白い砂利を敷いてあることぐらいか。
当初、道場を始めた頃は土の庭で、わずかに細い通路がある程度だった。
ある雨の日、小学生の兄妹が長靴を履いてきた。庭に水たまりがあるからだと言う。そこで砂利を入れたのを手始めに、いつの間にか、白い玉砂利の道になった。
今はすっかり開けてしまったが、20余年の間には道の両側にはアジサイやシャクナゲ、モミジ、キョウチクトウなどが生い茂り、雨の日には滴がかかるほどに通行の妨げにもなっていた。そこで、下記の「ビワの木」が切り倒されるのに次いで、バッサリと切り払われてしまった。
ついでながら、写真の「防犯カメラ作動中」について。
ある朝、ちょうどその下げ札の下辺りに、犬のうんちが5,6個転がっていた。散歩させる途中、始末をしないで行ってしまった輩がいるのだ。画像をYou
Tuberに頼むか、SNSに投稿するか検討中である。
閑話休題;庭のアジサイやキョウチクトウの枝や葉を伐採したついでに、玄関脇の一角に生い茂っていたアジサイとススキ、ナンテンも、道路にはみ出すほどなっていたため、きれいに刈り取られてしまった。跡があまりに殺風景だったので、小粒の白い玉砂利を敷いた。すると、切り取られた株のそれぞれが岩に見えなくもない。
折しも、ホームページの「エトセトラ2」に、捷士くんの「庭」が載った。そこには本物の「石庭」を模した「石の庭」が描かれている。それには及ばないが、それにあやかって「もどき」とする次第である。
−2018年−
Dec.27 <火の用心>
Nov.29 <わかったつもり Nov.1<ビワの木の物語>
Oct.4 <秋刀魚の味> Aug. 2 <読書感想文>
Jun,28 <今月の手紙> Jun.7<音読>
May 18<「モヤモヤさまぁ〜ず」> Apr.5<生きものガーデン>
Mar.1<国語力> Jan.18<八ヶ岳散歩>
Jan.1 <お年賀>
Dec,27 < 火の用心 >
「火の用心、ボールをけっても、こたつをけるな!……、火の用心、……」
半世紀ほど前の冬の夜、ある漁村では子どもたちが7〜8人のグループになって、大声を上げながら集落の中を回っていたものだった。
冬になると火事が多い。それは今も変わらないようだ。
そんな季節にふさわしい作文がある。2年前に書かれたものであるが、番外として、このページで紹介しよう。
私は将来、消防官になって、防火の仕事につきたいと考えています。 私は小学校2年生の時から、消防少年団に入っています。消防少年団は月に1回、、消防署に集まって活動します。消火器を使って火を消す練習をしたり、 AEDの使い方や応急手当のしかたを学んだりします。また、夏休みにはキャンプで自すいをしたり、消防署に泊まって災害時の体験をしたりします。消防少年団に入ったばかりの時は、キャンプに行ってもあそんでいるばかりだったけれど、小学校高学年になってからは、防災を意識するようになり、1つ1つの活動の意味を考えるようになりました。 今、将来になりたい仕事について考えると、真っ先に思い浮かぶのは、防災関係の仕事です。実際に消防署や消防庁について調べると、火災や救急などの現場に立つ仕事のほかに、火災を予防する仕事があることを知りました。火災が起きた時に消火することは大切ですが、火災を起こさないことも大切なので、火災を予防する仕事につきたいと思いました。 火災予防とは主に、例えば東京消防庁では、予防業務と安全業務があります。予防業務には、ビルや店に直接行って危険がないかを確かめる火災予防査察や、火災の原因を究明して火災を防ぐ火災調査があります。安全業務には、消防活動や各種施策を都民に伝える消防広報、住宅への防火防災診断を行う地域防災活動があり、ほかに、カラーガールズ隊という庁内の女性職員をメンバーとする音楽隊があります。専門講師を招いての音楽の訓練のほか、体力練成など現場の消防官と変わらない訓練をし、華やかで規律のある演奏を行います。 私は実際に防災安全業務をしている人にいくつかの質問をしたことがあります。その質問の中で、仕事の楽しいところを聞いた時に、人から感謝された時という答えが返ってきました。必要とされたという充実感があるということでした。私はこれを聞いて、仕事に対する張り合いのようなものを感じ、前より消防の仕事に興味をもつようになりました。 去年のクリスマスの時期に起きた新潟糸魚川の大火災は、「初期消火」のできなかったことが大きな反省点として挙げられていました。実際、出火元の近所の人たちは、両隣の計3軒くらいの火事だろうと思っていたということです。不幸にも強風にあおられて火が広がってしまったわけですが、もし火元のラーメン屋で火が出たときに消していれば、ラーメン屋自体も焼けずに済んだだろうということでした。私には「初期消火」の大切さが身にしみて分かった事件でした。 私はそんな事件を教訓として、町の人々に防災の大切さを説いて回る仕事をしたいと考えています。 |
「消火よりも防火」、私たちはこれを心がけたいものである。
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Nov.29 < わかったつもり >
物語や小説でも教科書の文章でも、日本語であれば、読めば「何となくわかる」。それで「わかったつもり」になっている。
ところが、例えば説明文について、「どんなことが書いてあった?」と聞かれると、たいていは答えられない。
「説明できないということは、わかっていないということだ」。これはギリシアの哲人ソクラテスの言葉である。
「わかったつもり」のまま、わかっていないと、困るのは試験の時である。国語にはこの傾向がある。
そこで、困らないための「秘伝」を紹介しよう。「作文打出の小づち」の「国語編」…「要約の作業」へ。
Nov. 1< ビワの木の物語 >
台風24号が過ぎ去った先月初め、道場の庭の入口にあったビワの木が切り倒された。種から芽を出して育った樹齢30年の木であった。
いつ、どんなふうにして大きくなっていったのか、記憶も記録も定かでないが、気がつけば軒の高さになり、二階の屋根に達する高さになっていた。「桃栗三年、柿八年」と言われるが、このビワは20年目にして、下の写真のような実をつけた。
これをもいでいる時、下から見上げている子どもに、「農薬を使っていないから、食べてもだいじょうぶだよ」と、一枝折って落としたものだった。
ところが、この木は育ちすぎて、厄介者でもあった。葉を落とすため、隣家に迷惑がかかる。そこで、張り出した枝を払ったり、幹を半分の高さで切ったりしたが、10年もたてば、二階を超す高さになってしまう。そこで遂に、種をまいた人の手で切り倒されてしまったのだ。
思えば、小2の娘が「給食で食べたビワがおいしかったから」と言って、その種を庭の隅に埋めたのは、平成が始まる頃であった。このビワの木は平成という時代とともに生きてきたといってよい。
来年の春、新天皇が即位され新しい元号が始まる頃、このビワの幹から新しい芽が出て、ビワの木は新たな御代を生きることになるだろう。
Oct.4 < 秋刀魚の味 >
今年は秋刀魚(さんま)が豊漁なのだそうだ。去年の不漁とは打って変わって大漁続きだという。
これから秋が深まると、脂ののった秋刀魚の大群が北海道沖から房総沖辺りに南下してくるという。
秋冷と秋刀魚というと、思い出されるのは次の詩である。
あはれ 秋風よ 情(こころ)あらば伝へてよ
——男ありて、夕餉(ゆうげ)にひとり さんまを食らひて
思いにふける と
さんま さんま
そが上に青き蜜柑の酸(す)をしたたらせて食らふは
その男がふる里のならひなり
(中略)
あはれ 秋風よ 情(こころ)あらば伝へてよ
——男ありて、夕餉(ゆうげ)にひとり さんまを食らひて
涙をながす と
さんま さんま
さんま苦いか塩っぱいか
…………
(後略)
(佐藤春夫『秋刀魚の歌』)
この詩は、男のもとを去った妻とその娘を偲んで歌ったものであるが、印象に残るのは「秋刀魚の味」である。
はらわたには苦さと塩っぱさがあり、焼きたてを見ると、そこにかぶりつく人もいよう。
ただし、その秋刀魚は炭火で焼いたものでなければならない。
七輪の網の上で焼かれて脂を滴らせ、その脂が燃えて煙が当のさんまをいぶす。しっかり焦げ目の付いたのを
皿に取ってかぶりつく。そこに秋刀魚の醍醐味がある。味付けは要らない。苦みと塩っぱさでじゅうぶんなのである。
テレビで、三陸や目黒(東京)の「さんま祭り}の模様が映される。長いコンロの上でさんまがもうもうと煙を上げている。
思わず唾を飲み込み、行ってみたくなる。だが、3〜5時間待ちなのだという。
七輪を買ってこよう。祭りは終わっても、シーズンはこれからなのだ。
Aug. 2 < 読書感想文 >
小6の暖太くんは次のような感想文を書いた、誰かに指示されたのではなく、いつも書いている作文の一つとして書いたものである。
題は、「ぼくの一冊『電車で行こう』で、字数は400字詰め原稿用紙に換算して440字となっている。
読者諸賢は、これについてどう思うであろうか。感想は?
これまで読んだ本の中で、ぼくの心に一番残っているのは、『電車で行こう』だ。これは、電車好きの4人の男の子が電車で旅をする物語だ。この本を読んでいると、自然に笑顔になる。 4人の男の子は夏休みに仙台に向かって出発した。ふつうの列車で行った。途中、その列車に乗っている人で、子どもをさがしている女の人がいた。4人は手分けして、すべての車両を調べた。すると、一番前の車両にその子はいた。さがしている間に列車は仙台を通り過ぎてしまっていた。4人は目的を果たせなかったが、人を助けることができた。 自分たちの目的でもないのに、人を助けるという場面を想像してみると、心が温まってくる。ぼくは落ち込んでいる時でも、この本を開くと、電車で旅をしている気分になって、気持ちを落ち着かせてくれる。『電車で行こう』は、ぼくの大切な一冊である。 |
この感想文は、次のような構成となっている。
第1段落 − 本の概要と、この本を取り上げた理由。
第2段落 − 内容の紹介(最も心に残った出来事)。
第3段落 − 感想。
短いが、構成がしっかりしていて、コンパクトにまとまっている。
諸賢の中には、「字数が足りない」という人がいるかもしれない。コンクール作文では、小学生でも600〜800字が要求されるからである。無理に内容を殖やす必要はないが、(それは「ふやかす」ことになるからだが)、その場合は第2段落の内容を、例えば、さがす様子を詳しく具体的に書けばよい。その際、決して第3段落に手をつけてはならない。往々にして「蛇足」を付けることになるからである。
中には、「あらすじを書くな」という御仁がおいでかもしれない。論外というべきだが、実際、そういったことを書いた本を店頭で目にすることがあるので、ひとこと言っておかなければならない。話の筋が分からなければ、どこの何についての感想かわからない。それは、根拠のない主張のようなものである。
ついでながら、読書感想文を募集する主催者や審査員に、ひとこと物申しておきたい。
読書感想文は、当初は感想を求めるものではなかった。真の目的は「小中学生に本を読んでほしい」という願いからであった。それが、ただそう声をかけるだけでは実際にどの程度読んでいるのか分からないので、傾向を知るために、読書感想文という形をとることになった。
ところが、感想に重きを置くことになって、文芸評論家の分析のような感想を求めることになり、理屈をこねまわす文章や、根拠のない主張をする文章が増えた。
原点に返って、素直な感想をこそが求められる。それよりも大事なのは、本の内容をどの程度理解したかである。
Jun,28 < 今月の手紙 >
道場では毎月下旬、通学生の月謝袋に保護者宛の手紙を入れている。一例を紹介しよう。
Jun.7 < 音読 >
雄翔(ゆうと)くんは小学4年生。作文を書き終えると、自分の書いた作文を、声を出して読む。土曜日の朝のことである。
「では、帰ったら、お父さん、お母さんの前で、しっかり読むんだよ」。「は〜い」。
実は、お父さん、お母さんに聞いてもらうのが本番で、書き上げたばかりの作文を読むのは、いわばリハーサルである。
雄翔くんが家に帰って読むのは、その日の作文の成果を見てもらうためであるが、もう一つは、読むことによって自分の書きぶりを確かめるためでもある。
声を出して読めば、書いたものは脳によく伝わる。表現がまずければ、まずさが分かり、すらすら読めれば快感を覚える。学校でも、昔から音読をさせているのは、このような効果を考えてのことであろう。
余談になるが、先日おいでになった「さまぁず」の三村さんから「作文を書いていれば、作文が好きになるものですか」という意味の質問があった。それについて、「スポーツと同じで、例えば野球でヒットを打てば気持ちがよく、それによって打つことが好きになるように、作文もスカッと書ければ、書くことに快感を覚え、書くことが好きになるものです」と答えた。
雄翔くんは作文を習い始めて半年になる。最初は、次の類いの作文だった。
「遠足で公園へ行った。広場でべんとうを食べて、ふわふわドームであそんだ。たのしかった。また行きたい」。
それが、「いつ、どこで、何があったか(何をしたか)。それがどうであったか」を具体的に書くようになって、内容が豊かになった。
雄翔くんは毎回1つ書いてくる。興味深い話が多いが、じゅうぶんとは言えない。そこで、状況を思い出して書き加えたり削ったりすることになる。納得のいったところで書き直す。
納得ずくで書き直したものであるから、音読の声には弾むような響きがある。
May 18 < 「モヤモヤさまぁ〜ず」 >
先日、「さまぁず」という人気のコンビが、女性アナウンサーを伴って、道場へおいでになった。
愉快なひと時を過ごし、生徒の作文の現場も見てもらった。
その模様が、テレビ東京の『モヤモヤさまぁ〜ず2』」という番組で、下記日時に紹介される。
5月20日(日)午後6時30分から7時50分。
作文道場のことは、その間の10〜15分くらいということだが、丁寧に作られているようだ。
チョッ
Apr.5 < 生きものガーデン >
春休みは、春期講習を受ける人も受けない人も、生徒諸君はほとんど午前中に出席する。部活をする人は夕方になる。
ある日の朝は、中2の晃くんが英語に、中1のユキちゃんが数学に取り組んでいた。
メールを確認して、テーブルに戻ると、トカゲのような黒っぽい生きものが体をくねらせて跳ねている。精巧なおもちゃに見えたが、晃くんが大事そうに手の平に載せているのを見ると、本物のようだ。しっぽが長いからカナヘビだ。入り口の踏み台に載っていたのだという。
「ああ、それでは、それはあいさつに来たのだ。暖かくなってきたからね。穴から出て、出てきたことを言いにきたのだろう」。
それというのも、去年の夏のことだ。入り口の脇のキョウチクトウの根っこの辺りに黒っぽいカナヘビが現れて、こちらを見上げている。「チョッ、チョッ、チョッ」と舌を鳴らすと、踏み台のほうへやってきた。手を差し出すと、臭いをかいで、根っこの茂みに戻った。
あのカナヘビだ。人懐こいから間違いない。ユキちゃんは恐れる気配もなく、興味深そうに眺めている。しばらく透明のプラスチックの器に入れて、ほかの生徒諸君に見せた後、茂みに戻した。
かつて「小鳥の来る庭」という話を書いたが、道場の庭には鳥だけではなく、爬虫類も両生類も現れる。ハクビシンが都県境からやってきたこともあった。
(こちらの「作文打出の小づち」−「閑話」の「6.小鳥の来る庭」、「13.珍客」参照)。
庭といっても、幅2メートル半、奥行き10メートル余りの狭い空間である。真ん中に白い玉砂利の通路があって、その左右は植込みになっている。右手の植込みの奥半分はテラスで、そこに教室の入り口がある。
3月の初めごろ、久しぶりに雨が降った時、教室の窓の下辺りで、「くわっ、くわっ、くわっ」という声が聞こえた。ヒキガエル(ガマガエル)だ。ちょうど啓蟄(けいちつ)にあたる頃だ。冬眠から覚めて穴から出てきたところへ雨が降ってきて、喜んでいるのだ。
翌日、「あら、あれはカエルじゃないかしら」と、あるお母さんの声が聞こえた。見ると、通路の向かい側の塀際にヒキガエルのつがいがいた。ヒキガエルは雄が小さく、雌の背中に乗っているのが常だ。「あら、あそこにもいるわ」。みると、奥の塀際にももう一組がいた。
その時は、ヒキガエルの存在を知るに留めたが、夕方になって戸を開けると、踏み台の前の玉砂利の上につがいが一組いた。きっと、あいさつに来たのだ。
後日、そのことをそのお母さんに伝えた。「せっかくだから、喉でもさすってやると喜ぶよ」とも伝えたが、もちろん、「わあ、やだ」という返事であった。
ヘビも現れる。残念ながらその時は隣家の敷地に侵入して、市役所の捕獲係に捕まってしまったが、いろいろな生きものが現れるのは、この辺りは30年ほど前の「新興住宅街」であるからだ。今でも向かいの家並みの裏には植木畑が残っている。ヘビたちはそこに住んでいるようだ。ヒキガエルたちは道場の室外機のブロックの穴にいる、とは生徒の目撃談である。
もちろん、ヒキガエルやヘビの姿をふだんは目にすることはない。それゆえ、生徒たちも気にすることはないのだが、そういう生きものがいるということは、この辺りにはまだ自然があるということだ。そこに安らぎを感じる。
何年かぶりにウグイスも戻ってきた。「ホーホケキョ」は少々ぎこちないが、ホトトギスのような丸みを帯びた声を響かせている。
晃くんの手の平で遊ぶカナヘビくん
Mar.1 < 国語力 >
入試戦線が幕を閉じると、新学年への展望を図る時となる。
Yさんは中学3年生。中高一貫校に行っているから、入試は受けずに済んでいるが、高校への準備を始めなければならない。
というのも、高校の国語の文章はぐんと難しくなるからだ。
実は、Yさんは帰国子女で、英語は英検1級なのだが、国語力は中程度である。
文章の要約となると、内容を書き写し気味になる。そこで、「もっと頭を使うように」とアドバイスすることになる。
要約の作業の目的は、内容を簡潔に把握することにあるが、「頭の体操」でもある。もっと厳しく言えば、「頭脳の鍛錬」であり、思考力の鍛錬でもある。これは、延いては言語能力の涵養となる。
学年末試験の前に、対策として出題範囲のワークを渡す際、Yさんにはいつものように「これは基本のチェックであるから、あとはノートを見直すように」といっておいた。そうすれば、対策は万全とは言えないまでも、要約の作業をしておきさえすれば、80〜90点は望めるのである。
一般に、国語の得点が低いという場合、根本的には「読みが足りない」のである。日本語は「何となく分かる」のだが、本当に分かっているかとなると、すこぶる怪しい。
それは、入試の場合にも同様である。長文がでると、読み切れない、意味・内容をつかみ切れないのである。それが、この時期の反省点でもある。
では、要約はどのように行えばよいか。これについては、繰り返し述べていることなので、こちら2015年の「要約の作業」を参照。
Jan.18 < 八ヶ岳散歩 >
正月の松の内を過ぎた、ある日、八ヶ岳の八つの峰の間の尾根歩きをした、というわけではない。
その日は晴れていたが、八ヶ岳の峰々には雲がかかっていた。もしそんなことになるなら、清里の「吐龍(とりゅう)の滝」へ行こうと決めていたが、そのとおりになった。
吐竜の滝への道は、清里駅から2つある。一つは北回りで林の中を通る。もう一つは南回りで車道を通る。どちらも約3キロ、徒歩50分見当である。
出発が午後1時半頃になったので、タクシーにしようと思ったが、出払っていたので、やむなく歩くことになった。歩くなら林の中である。八ヶ岳山麓の散歩と相成った。
駅から舗装路を300メートルほど歩いて、教会と保育園の間の小道に入る。入り口を教えてくれたおじさんが「一時間はかかるよ」と言ったので、少々心細くなった。
道の両側は落葉松(からまつ)の林である。細めの木が、文字どおり林立している。葉は、名のとおり、すっかり落ちているが、それもなかなかの風情がある。思えば、小淵沢からの小海線の沿線は落葉松林である。時折、八ヶ岳の裾野が透けて見える。太宰治なら、「八ヶ岳には落葉松がよく似合う」とでも言いそうである。
小道には雪が散らばっていて、足が踏み込む。霜柱が解けずにいるためだろう。雪が積もっていないのが幸いである。新潟では何年ぶりかの大雪だとの報があることを思うと、標高1300メートルの、この高地に雪のないのが不思議に思われる。
小道はところどころ小さな流れの跡で分断されるが、落葉松林は続く。歩きながら、こんな詩が思い浮かぶ。
からまつの林を過ぎて、
からまつをしみじみと見き。
からまつはさびしかりけり。
たびゆくはさびしかりけり。
からまつの林を出でて、
からまつの林に入りぬ。
からまつの林に入りて、
また細く道はつづけり。
これは北原白秋の「落葉松」という詩で、この後も八連まで続くが、この小道のからまつの林の続く様子はこのとおりである。
日が傾いてくると、「さびしかりけり」という気分にならなくもない。道中、人っ子一人出会わないことでもある。
霜柱の小道に足を取られながら、「からまつの林を出でて、落葉松の林に入りぬ」を繰り返しながら進んでいると、やがて谷川の瀬音が聞こえてきた。
急峻な崖の下に谷の流れが見える。階段に半ば腰掛けながら崖の道を下りる。
吐竜の滝は、十数メートルの三段滝が2つとすだれ状の二段滝から成っている。冬にしては水量が多い。
下の写真は、そのうちの真ん中の一つである。
−2017年−
Dec.29<ぜっこ〜ちょ〜> Nov.30 <野球の醍醐味>
Nov.9 <ねこまんまトースト> Aug.10<平和記念式典>
Aug. 3 <満員札止め> Jun. 1 <「子ども110番」>
Apr.20 <新入生代表> Mar.30<春休みから新学期へ>
Feb.27<『じゅん散歩』> Jan.19<富士山>
Jan.1 <お年賀>
Dec.29< ぜっこ〜ちょ〜 >
10月の中ごろ、MHさんから筑波大学合格の報が入ったのを皮切りに、11月にはMFさんが共立女子大学、SAさんが東京農業大学に、12月に入ってSSさんが東京学芸大学に合格したとの報が入った。MHさんからは早稲田大学合格のおまけもついた。
思わず、「ぜっこ〜ちょ〜!」と口を突いて出た。(ちなみに、これはプロ野球、横浜ベイスターズの前監督の、勝利の雄叫びである)。
大学学部等の情報は、こちらの「合格速報」へ。
4人はAO入試や推薦入試での合格であるが、特にHMさんとSSさんは小5の時からの生徒であるから、感慨もひとしおである。
2人は、作文をたくさん書いた。ホームページには、あちこちに登場してもらっている。というところで、実は、HMさんは馬路ひなのさん、SSさんは椎谷咲歩さんである。
1つ1つのサイトを紹介しきれないので、2人の代表作のページを紹介しておこう。
ひなのさん − 「GAKKO2016・バリ島キャンプ(社会科作文4)
咲歩さん − 「イタリア紀行・美術館めぐり」(美術レポート)
「いざ、受験」となった時は、当方も緊張した。何としても希望校に入ってもらわなければならない。
ただ、7年余りの付き合いであるから、アドバイスには多言を要しなかった。2人は順当に合格したと言える。
1月になれば、上旬からは公立中高一貫校の入試が始まり、下旬には私立高校の推薦入試が行われる。息の抜けない日々が続く。
Nov.30 < 野球の醍醐味 >
東京六大学野球、秋のリーグ戦最終週、早慶1回戦、早稲田大学のO選手の一打はライナーで左中間に飛んでいった。
糸を引くようなような打球であった。2塁打にはなったが、惜しくもフェンスの当たって跳ね返った。
「惜しくも」というのは、ホームランにならなかったからというのではない。ライナーで抜けて2バウンドぐらいでフェンスに当たってほしかったのだ。
それというのは、話は7年前にさかのぼる。
Oくんは、もう一人のTくんと早稲田実業を目差して、作文の演習に取り組んでいた。合間の雑談は、いきおい野球の話になる。
ある時、「野球をやっていて、いちばんおもしろいというか、醍醐味は何だろう」という話になった。
体験をいろいろ挙げた後、「右中間、左中間をライナーで抜いて、2塁や3塁のベース上に立った時」というところに話は落ち着いた。
ピッチャーなら「ストレートで三振を取った時」となるかもしれないが、2人とも野手であった。
早稲田実業では2人とも甲子園出場を果たした。Tくんは鉄砲肩を見込まれてピッチャーに転向し、強豪の平安戦では8回、9回をパーフェクトに抑えた。
その後、2人は早稲田大学に進んだ。
大学野球のテレビ中継は早慶戦ぐらいしかないが、3年生の去年、Oくんはライトを守り、ベンチにはTくんの姿も見えた。
4年生の今年、Oくんは、なんと、サードを守っていた。華の早慶戦の、華の三塁手である。打順は2番で、左中間2塁打を放ったのだ。
7年前を思い出し、こちらも‘醍醐味’を味わった。
Nov.9 < ねこまんまトースト >
道場の1コマの定員は3人である。それぞれがそれぞれの作業をしている。小学生と高校生がテーブルを囲んでいることもある。
作業の合間には雑談もする。食べ物の話となると、よくこの話が出る。こちら(「作文打出の小づち」→「閑話」→「1.グルメトースト」)へ。
この話を聞いていた優ちゃん(小6)が、家に帰ってさっそくお母さんと作ってみたのだそうだ。レシピは、「焼けたトーストにバターを1〜2ミリの厚さでぬり、その上にかつをぶしをふんわりとのせ、しょうゆを2〜3てきたらす」である。
食べてみたら、とてもおいしかったので、次の日の朝、家族の分も作って、お父さんに感想を聞くと、「ねこまんまのごはんがパンになったのだね。『ねこまんまトースト』なんて、どうだ」と言って、会話がとてもはずんだそうだ。
今までは「C級グルメ」と、遠慮がちに言っていたが、よい名前がついたものだ。これからは「吾輩は『ねこまんまトースト』である」と、大手を振って歩けそうだ。
今月6日には広島市で、9日には長崎市で、今年も平和記念式典が行われた。両市とも力強い平和宣言を行った。宣言では、7月に国連で採択された「核兵器禁止条約」への日本政府の参加を促していた。その促しには怒りが込められていた。
(「核兵器禁止条約」の採択に至る経緯については、こちら(「世事雑感」の「11.またも日本政府の『愚』」へ)。
広島では松井市長が、「各国政府は、核兵器のない世界に向けた取り組みをさらに前進させなければならない」としたうえで、日本政府に対して、かなり柔らかな調子で、『核保有国と非保有国の橋渡しに本気で取り組んでほしい』と求めることにする」と述べる留めたが、
長崎では田上市長が、国連で採択された「核兵器禁止条約」の交渉会議に参加しなかった日本政府の姿勢を「被爆地は到底理解できない」と厳しく非難し、条約を批准するよう迫った。
この条約は、ヒバクシャ(HIBAKUSHA)が、国連の各国代表団を長年に渡って説得し、条約の採択にこぎつけたものであった。
そのヒバクシャたちも記念式典に出席していた。安倍首相はその人たちにねぎらいの言葉をかけるわけではなく、総理大臣としての挨拶でも条約の採択に触れもしなかった。テレビを見ている人たちからは、「どの面下げて、あそこに座っているのか」という声が聞かれた。
長崎では、式典の後の被爆者代表との会合では、「あなたはどこの国の総理大臣ですか」とまで言われたそうだ。
猛暑日の続く日本列島の中で、首相はさぞや煉獄の中にいる思いだろうと推測されるが、「条約は、我が国のアプローチと異なるものであるから、署名、批准を行う考えはない」のだそうだ。
何を言っても、「蛙の面に水」(かえるのつらにみず)のようだ。
Aug. 3 < 満員札止め >
7月30日、高校野球・西東京大会決勝戦が神宮球場で行われた。対戦校は早稲田実業と東海大菅生高校で、試合開始は午後1時である。
早稲田実業には、当道場出身の選手が2人いる。道場ではこの2人のために、早稲田実業を応援する。
夏期講習の最中であるが、この日はあらかじめ、授業は10時半までとしておいた。道場から神宮球場までは1時間ほどかかる。明け方からの雨も上がったため、11時に出発した。
雨の心配はなさそうだが、問題は入れるかどうかである。
東京都高校野球連盟は、準決勝、決勝戦の入場券を前売りで始めた。これは、早稲田実業の試合になると、球場の周りに長い行列ができるためである。昨秋の関東大会の東京都予選の決勝戦(早実対日大三)では1㎞余りの行列ができていた。
今年の春の決勝戦(早実対日大三)では、当初予定していた神宮第二球場では収容人員が5,000人しかないということで、急遽、神宮球場でのナイターに切り替えたほどであった。
これらは、清宮幸太郎人気のなせるところである。
高校野球の予選で外野席を開放するのは異例のこととされるが、多摩地方で行われる予選でも、早稲田実業の試合となると、外野が解放される。観客は皆、口には出さねど、清宮くんのホームランを期待している。
清宮くんはこの日までに、高校通算107本を打って高校記録に並んでいた。あと1本で新記録である。その期待もあるから、おそらく今日は超満員になるであろう。それを思えば、前売り券を買っておかなかったのは失策である。
球場の最寄り駅に着いたのは12時であった。そこから球場までは歩いて15分ほどである。
球場の50メートルほど手前に行った時に、放送が流れた。「本日の入場券は完売しました」。
やむなく引き返してテレビ観戦となったが、早稲田実業は6対2で敗れた。清宮くんのホームランも出なかった。
Jun. 1 < 「子ども110番」 >
道場の庭の入り口には、「子ども110番の家」という、縦18センチ、横12センチの札がぶら下がっている。これは、市のPTAと教育委員会、警察署の連携によって、有志の家に設置されたものである。
子どもが不審者に出会ったり、後をつけられたりした場合、跳びこんで助けを求められる仕組みになっている。
20〜30年前は、「道を聞かれた子どもが、そこまで連れて行ってくれと言われた」とか、「道で出会った男の人が、いきなりズボンを下げた」とかいう話を耳にしたものだった。そんなことがきっかけで、札の作成になったようだ。
市内を散歩していると、5〜10軒に1軒ぐらいの割合で、この札が目につく。これが大きな効果を生んでいると考えられる。この20年来、市内では性犯罪のニュースを聞かない。この種の事件は表面化しないため、定かなことは言えないが、街じゅうに、いわば暗黙の、監視の目が光っているのだ。その気(け)のある輩はうっかり手出しはできないであろう。
道場でも、ぶら下げて20年余りになる。助けを求めてきた子はまだ一人もいないが、札はただぶら下げておけばいいというものではない。それなりの備えはしておかなくてはならない。
もしも助けを求める子がいれば、いったん室内にかくまって教育委員会に連絡し、保護者に引き渡すまで預かっておく。
こう書けば、ことは簡単だが、場合によってはすぐに警察に連絡しなければならないケースもあるであろう。相手次第で不審者と対峙しなければならないことがあるかもしれない。それだけの覚悟は要るのだ。
平穏無事に過ぎている日々であるが、最近の児童誘拐殺人事件によって、「知らない人についていってはいけない」が、「知った人でもついていってはいけない」にまでなっている。
「子ども110番の家」も、覚悟に加え、何らか考え直さなければならないご時世であるようだ。
Apr.20 < 新入生代表 >
「桜前線北上の報に接すると、毎年のことながら、入学式の頃に満開になってほしいと念じます」と、「3月の手紙」(毎月下旬に通学生の家庭宛に出しているお知らせ)に書いた。 「入学式には桜の花がよく似合う」であろうからだ。
東京地方の開花宣言は3月21日であったから、「ちょっと早い」と思ったが、幸いにもそのあとすぐに真冬並みの寒さが4〜5日続いたために、開花は足踏みしたようで、満開の時期は4月の上旬になった。入学式には、文字どおり花が添えられた。
そんな華やかな時期に、喜ばしい出来事が一つあった。
話は少しさかのぼるが、先月30日、あるお母さんから、次のようなメールが寄せられた。
「ご報告なのですが、息子のRが入学式で、新入生代表の挨拶をすることになりました。入学説明会で声を掛けられたので、理由を聞くと、『受検の作文も見させてもらってますし』と言われました」。
Rくんは、理科に興味をもっていたので、その方面の作文はてきぱきと書いていたが、その他の、いわば文学方面の作文ではギクシャクするところがあった。そのため、書き方のパターンが落ち着いたのは間際であったが、メールから判断すれば、本番ではうまくいったのだろう。
挨拶では入学後の抱負を述べたようだ。ステージに登って、校長先生に向かって抱負を読み上げているところが写されている。
Rくんはおとなしい性格であるが、大役を果たして、大いなる自信がついたことだろう。
〔付記〕
その1週間後、お母さんから次のメールが届いた。
「実は今日、受検の得点開示を行ってきたのですが、適性検査Ⅰが100点満点中、95点でした」。
「適性検査Ⅰ」は「読解・作文」である。代表に選ばれるのもむべなるかな、である。
Mar.30 < 春休みから新学期へ >
道場は、ただいま春期講習で、新学期の準備を並行させている。
講習と言っても、一斉授業ではない。個別学習である。生徒諸君の希望は様々で、例えば、英語では現在完了と受動態だけであったり、不定詞だけであったりする。数学では文章題に集中するというのは珍しくないが、変わったところではもっぱら証明問題に取り組む生徒もいる。
いわば一単元に集中するのは、春休みという期間の制約による。短い期間に総合問題のようなものに手を広げることはできない。しかし逆に、効率よく一分野を克服できるという利点がある。
国語では読解が中心になる。一般的なテキストを用意するが、それはウォーミングアップであって、中心は記述問題である。「この際、……」というわけで、文法の整理にかかる生徒もいる。
道場の性格上、どの生徒にも作文が課される。宿題の読書感想文に呻吟する生徒もいる。
ちなみに、講習時間は、1コマ80〜90分の、7〜8コマである。1コマの定員は3名。
受講は任意であるが、全12日間の、午前中の24コマは(不思議なことに)延べ72名で、ちょうどふさがる。部活をする生徒は夕方に来る。
桜前線の北上の知らせに乗って、新学期の準備を進める。
受験生、特に公立中高一貫校を希望する諸君には年間プログラムを用意する。といっても、基本パターンはできているから、今年度の問題を何月の何週に入れるか、その程度の改定で済む。
もう一つのプログラムは、小・中学生用の「作文と国語 演習プログラム」である。要約には教科書の文章を用いるから、教科書別を考慮しなければならない。それに加えて、「段落分け」の指示もしなければならないから、その作業にも追われている。
Feb.27 < 『じゅん散歩』 >
3月3日(金)午前9時55分、テレビ朝日の『じゅん散歩』で、高田純次さんが作文道場に訪ねて見える。
※ 見逃した場合は、You Tube で見ることができる。「じゅん散歩2017」で「恋ヶ窪」が現れ、2番目の訪問が「作文道場」となる。
Jan.19 < 富士山 >
「これぞ、富士!」という1枚をお目にかけよう。
その前に、道場で今、受験生に繰り返し与えている注意について記しておこう。
例年のことながら、次の一言を念押ししている。
「始めよければ半分よし、終わりよければ全てよし」
その詳細については、5年前に書いた記事がある。微に入り細に渡って念入りに書かれている。
現在は、「作文打出の小づち」の「小論文編」に「首尾」という題で収められている。こちらへ。
さて、「ちょっと自慢!」といってもよいほどの傑作は、こちら↓。
1月12日(木)、午前8時ごろ、富士急行「ふじさん」駅の駅ビル屋上の展望台から。
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ー2016年ー
Dec.8<読解力> Sept.15<垣根越し>
Aug.18<「読めば分かる」> Jun.16<キーセンテンス>
May 19<せんべい鏡開き> Apr.28<白の輝き>
Mar.24<道場のお兄ちゃんたち> Feb. 25<読解の三要素>
Jan.21<終わりよければ……> Jan.1<お年賀>
Dec.8 '16 < 読解力 >
いささか旧聞に属するが、2か月ほど前の新聞に次のような記事が載っていた。「ほおっ」感心する一方で、「おや?」と首をかしげざるを得ない面もある。以下に抄出する。
……………………………………………………
学力の基礎となる読解力の向上を目指し、国立情報学研究所が新たな研究所を設立する準備を始めた。
そのきっかけは、同研究所が人工知能(Artificial Intelligence−AI)開発プロジェクトを実施するに当たって行った中高生対象のテストで、文章の内容を正確に理解できない生徒が多かったことだ。テストを受けた公立中学生340人の半数近くが内容を読み取れていなかった。さらに2割は主語が分からないなど、基礎的な理解もできていなかった。
同プロジェクト代表の新井紀子教授は、「人間がAIと違うのは高度な読解力があること。読解力は、将来AIやロボットと仕事を分け合う可能性のある子供たちにとって、何より大切だ」と考え、読解力の向上を目指し、産学連携機関「教育のための科学研究所」を、2年後をめどに発足させる準備を進めている。
新井教授らの研究には、文部科学省や中央教育審議会も注目している。
(「朝日新聞;2016年10月8日)
……………………………………………………
新井教授たちは、理系関係の仕事をしていたために、生徒の実情が分かっていなかったのだろう。恐らく子どもたちの読解力の無さに驚いたと思われる。しかし、驚いているばかりでは自分たちのAIプロジェクトは進まない。そこで、すぐにも読解力向上のための研究所を発足させたのであろう。これは称賛に価する。
これに対し、文部科学省や中央教育審議会の「……注目している」という態度は不可解である。子どもたちに読解力が欠けていることは分かっていたはずだ。「今さら何を……」と非難されても致し方あるまい。机の上にペットボトルのお茶を並べて、いったい何をしていたのか。
中教審が新井教授らの研究を引き、ようやく新しい学習指導要領に向けて、「文章で表された情報を的確に理解し、自分の考えの形成に生かしていけるようにすることは喫緊の課題」と言っているようだが、文科省も教育審議会も「自分で考える力」のないことを暴露しているようなものである。
ついでながら、喫緊の課題をどう実施に移し、課題の解決に努めるのか。恐らくペットボトルを並べている面々には解決力はあるまい。
それに対し、読解力をつける方法は、民間・私塾ではとうに見つけ、実行しているのである(公立校では、積極的に取り組んでいるところは少ないようだ)。
その方法は、……、またの機会に譲ろう。
追記:折しも、これを書いている10月6日、OECD(経済開発協力機構)が3年ごとに行うPISA(国際学力調査)の結果が公表された。
それによると、日本の子どもたちは科学では2位、数学は5位であるが、読解力は8位であるという。
Sept.'16 < 垣根越し >
金木犀の香る季節になった。散歩をしていると(自転車で気ままに徘徊することもあるが)、けっこういろんな収穫もある。
今日は、垣根越しに聞こえてきた話をいくつか収録しておこう。
1.お昼前、老夫婦が買い物に出かけようとするところらしかった。
「ねぇ、カギをかけてくれた?」
「ん? すぐ帰るんだから、だいじょうぶだ」
「でも、この頃は空き巣が多いということだから、心配よ」
「だいじょうぶだ。取られるようなものは何にもないし」
「…………」
「却って泥棒が気の毒がって、千円ぐらい置いていってくれるかもしれない」
2.夕方、芝生の庭でバーべキュ—の準備をしている。当主の会社の同僚とおぼしき人4〜5人とその家族が肉や野菜を運んだり、テーブルと椅子を並べたりしている。
子どもたちは待ちきれない様子で、コンロのそばに集まっていた。その中の一人が、
「もう焼き始めてもいい? 父上」
一瞬、同僚たちの表情が変わった。
「ほぉ、お宅では『ちちうえ』と呼ばせているのですか」
「格式が高いですね。そうすると、お母さんは『ははうえ』ですか」
「『ママ』」
3.昼下がり、ご亭主が脚立に乗って、庭木の刈り込みをしている。
「あら、きれいになったわねぇ」
「まんざらでもないだろう、この腕前は」
「定年になったら、シルバー事業団が雇ってくれるかもね」
ご亭主はご機嫌で下り始める。ところが、自分の出来栄えに見とれていたせいか、一番下の一段を踏み外して、尻もちをついてしまった。
ご亭主は座ったまま、何やらつぶやいていた。「過ちは安き所になりてつかまつることに候」と言ったかどうかは定かでない。
ちなみに、これは『徒然草』の「高名の木登り」の一節である。
Aug.18 '16 < 「読めば分かる」 >
夏休みに入ると、この言葉を繰り返すことが多くなる。それは、新入生が増えるためである。
入試問題では、中・高・大学入試のいずれにおいても同様であるが、文章は決して易しいとはいえない。
特に小学生は、今まで見たこともないような、見慣れない文章に出くわす。
例えば、公立の中高一貫校では、「文章A」「文章B」の2つの文章があって、1〜2の内容吟味の設問の後、「〇〇について、文章A、文章Bの要点をふまえて、あなたの考えを400〜450字で書きなさい」というような課題が出される。ここに言う「要点」は、「筆者の考え」となることもあるが、要するに「要旨」である。
その要旨を、最初はなかなかうまく捉えられない。そのため、課題の作文にも手がつかない。(作文は体験をもとに書けばよいのだが、要旨に関連する体験が思い浮かばないのである)。
そこで、入試問題への取り組みを始めるに当たっては、最初からめげることのないよう、「始めは壁にぶち当たったような気がするかもしれない」と言っておく。その上で、「これは山登りのようなものだ。ふもとから頂上を眺めた時は、あんな高い所に登れるのかな、と思うだろうけれど、一歩一歩登っているうちに、いつの間にか頂上に着いているようなものだ」と話し、「最初は2〜3時間かかってもよいから、分かるまで読んでみよう」と念押しをする。
(「2〜3時間かかってもよい」ということに対して、いつぞやも書いたことであるが、「入試では制限時間が45分だから、45分で書く練習をさせたい」という親御さんがいる。これに対しては「時間内に書けても、中味が粗末であれば、得点にならない。大事なのは中味である」と、釘を刺しておくことも少なからずある。練習を続けていれば、だんだん時間は縮まり、本番では時間内に書けるようになるのだが、結果をみなければ、この話は分からないようだ)。
こうして練習していても、なかなか正解にたどり着けない生徒がいる。そういう生徒はたいてい「読みが上すべりしている」か、「話の筋がつかめていない」のである。そこで、「辞書を引いてもいいよ」とアドバイスする。(これに対して、「試験場では辞書は使えない」という半畳も入るのだが、今は練習中なのだ)。
辞書を引くことによって語彙(ボキャブラリー)を増やすこと。それが、見慣れない文章になじんでゆく方法でもあるのだ。
「読書百遍、義自ずから通ず」(100回読めば、意味は自然に分かってくる)という故事も引きながら、「読めば分かる」と、生徒諸君を練習に駆り立てる日々となっている。
なお、要点・要旨・要約について、苦労しているのは小学生ばかりではない。中・高生の場合も同様である。「読めば分かる」。分かるまで読むことを助言する。
要約に際してカギとなるのは、文字どおりキーワード、キーセンテンスであるが、これは下記に譲ろう。
Jun.16 < キーセンテンス >
去年の7月16日付で「要約の作業」について書き記したが、その作業の目的は、最終的には要旨をつかむことにある。手順としてその前段階の作業が「段落の要点」のまとめである。
段落の要点を列挙して、通読すれば要旨が分かる(見つけやすい)という寸法である。
先述の「要約の作業」で行っていたのは、主に「段落の要点のまとめ」であるが、これには少し補足を要する。ハッちゃんが案じていたのは、もしかすると、全体(段落の全体)を一息にまとめようとしていたからかもしれない。
そうであるならば、大事なのはその段落の中心となる文(キーセンテンス)はどれであるかを判断すること(見つけること)である。そうすれば、あとはその文の理由・根拠となることなどを付けていけばよいのである。
こう書けば簡単そうに見えるだろうが、実際、中心を決めれば、作業は案外簡単に進むのである。
そこで、作業に当たっては「まず、キーセンテンスを探せ!」となる。
ついでながら、高校入試、大学入試の長文読解では、キーセンテンスに傍線を引きながら読み進めればよい。その際、決して線を引きすぎてはならないことは言うまでもない。
May 19 < せんべい鏡開き >
ゴールデンウィーク明けに、「せんべい(煎餅))の鏡開き(かがみびらき)」を行った。
鏡開きというのは、ふつうは正月の松の内が明けた後、10日ごろに、神前に供えた鏡餅や家内の要所に供えてあった餅をお雑煮やお汁粉に入れて食べる風習を指すが、道場では3か月ほど教室に飾ってあった大判の煎餅をみんなで分かち合っていただいた。
そもそもは、マコさんが2月に高校合格のお礼にといって、地元・前橋の名物を持ってきてくれたことに始まる。縦35センチ、横25センチほどもある大判型の煎餅で、中央に「作文道場」という白い文字が入っている。クラスに煎餅屋さんの子がいたので、特別に作ってもらったのだそうだ。
すぐに食べてしまってはもったいない。賞味期限は6月中旬となっている。そこで、しばらく教室に飾っておくことにした。「いつ食べるの?」という声には、「連休明け」と答えた。ゴールデンウィークが近づくと、関心は「どうやって割るの?」ということに移った。
実行日は、マコさんとなじみの子の多い土曜日の10時半とした。
すいか割りのように、目かくしをして木剣でたたくという案も出たが、粉々になってもいけないので、手刀を振るうことにした。選士は合気道の心得のあるヤッちゃんである。
見事に筋が入って、いくつかに分かれた。その日に居合わせなかった生徒にも1かけらずつ行きわたった。
ちなみに、味は「絶妙のしょうゆ味」であった。1かけらでも、じゅうぶんに味を堪能できた。
なお、時期をたがえた「鏡開き」について、鏡餅も煎餅も同じ「餅」であるから、時期は違っても一向に差し支えない。
この「鏡開き」を契機に、作文道場はますます発展するであろう。
Apr.28 < 白の輝き >
このところ、外に出ると目につくものに「白の輝き」がある。
桜に代わって花水木が、こんなにもたくさんの花を付けることがあるのかと思わせるほどに、木の全体に爛漫と白い花を咲かせ、青空をバックに陽に輝いている。
目を地上に転じると、植込みの中でひときわ輝くものに白ツツジがある。赤や緑は脇役となっている。
山口誓子に『天よりも輝くものは蝶の羽』という句があるが、「蝶の羽」のところに「ハナミズキ」と入れ、「白ツツジ」と置き換えても情景は成り立つ。
「白」というのはこんなにも美しいものかと、改めて感じさせられる。
白の輝きを写真で補っておこう。ただし、爛漫の花水木は撮り損ねている。
Mar.24 < 道場のお兄ちゃんたち >
ミカちゃんとココちゃんが期せずして道場のお兄ちゃんたちのことについて書いた。
二人の作文は既に「作文のこころ」で連載を始めているが、お兄ちゃんたちのことはここで紹介することにしよう。
ミカちゃんが先月の末に「せきがえ」という作文を書いた。
2月29日にせきがえがありました。すると、前好きだった人と、となりになりました。 このごろはあまり好きではありませんでした。ふつうでした。この前いっしょにそうじしたとき、私のテンションがひくかったからです。でも、せきがとなりになったときに、すごくハイテンションになって、今は好きです。その男の子のいいところは、字がきれいで、かっこよくて、やさしくて、おもしろいところです。その男の子のおかげで、学校生活がもっと楽しくなりました。 今、好きな人は、その男の子と、作文道場のお兄ちゃんたちだけです。あとは全員ふつうです。 |
小3の女の子の心理も読み取ってほしいが、お兄ちゃんたちというのは、どんな人たちなのだろう。
その半月後、小2のココちゃんが「ハッちゃんとヤッちゃん」という作文を書いた。
わたしは作文をならっています。毎週土曜日に、作文に通っています。そこでいつも、ハッちゃんとヤッちゃんといっしょに勉強しています。ハッちゃんは小学5年生で、ヤッちゃんは中学1年生です。 べんきょうしているあいだに、ハッちゃんがヤッちゃんのところに行って、かみの毛を1本ひっぱって、ぬこうとします。前に、作文の先生が 「かみの毛を3本ぬいたら、さるになっちゃうんだよ」 と言いました。そしたら、ハッちゃんは、ヤッちゃんをさるにしようと、ますますかみの毛をひっぱるようになりました。 わたしは、二人になかよくしてほしいから、かみの毛をひっぱらないでほしいと思いますが、見ていてたのしいです。 |
ハッちゃんは「きゃっきゃ」と言って挑んでいる。まるでサルのようだ。ヤッちゃんは防御に努めるばかりだが、二人は、帰りには連れだって教室を出て行く。仲良しなのだ。
Feb. 25 < 読解の三要素 >
この三要素は、結論から言えば、「漢字・語彙・要約」である。
極端な例だが、国語の読解問題で、答えが見え見えと思われる場合でも間違える生徒がいる。なぜだろう。長年塾講師をしている友人の話では、「勝手に読んでいるんだ」ということである。「勝手に」とはいっても、「いい加減に」というわけではない。まともに読んでいて、間違うのだ。
なぜ、こういうことが起こるのか。それは「言葉の意味が分からないから」だが、初歩的には、「漢字が読めていないから」ということである。
極端な例と書いたが、これは中学・高校に進むにつれ、多かれ少なかれ たいていの生徒にあることなのだ。
そのため、ここは特に小学生の親御さんに聞いておいてほしいところであるが、小学校では、毎週10文字くらいずつ漢字のテストがある。それを順次マスターしていくことが望まれる。これによって、読解の基礎が養われる。漢字に親しみさえ覚えるようになって、苦手意識もなくなる。
ところで、大事なのはここからである。漢字は他の漢字と結びついて熟語となり、意味の世界を広げる。そのため、漢字一字を覚えることに満足せず、その都度熟語をマスターしていく必要もある。これによって、語彙(ヴォキャブラリー)が増えて、言葉の世界が豊かになり、読解が進むことになる。
「日本語は、何となく分かる」。これが読解の妨げになっていることは、高校生・大学生ならば、気づくところであろう。そのため、意味の分からない、あるいは、あいまいな言葉に出会ったら、その都度意味を確かめる必要がある。
ついでに言えば、大事なことでありながら、なおざりにされがちなものに音読がある。
近頃は、それを宿題にしている学校もあるようだが、内容が読み取れているかどうかは、声に出して読んでみれば分かることである。
音読の効用については稿を改めたいが、これは小中学生に限られることではない。読解が苦手と思うならば、すらすら読めるかどうか、大学生も自ら試してみるがよい。
それはともかく、漢字、語彙に続く、三つ目の要約については、下記の「要約の作業」('15 Jul .16)参照。
国語の二本柱は「理解と表現」である。「理解」のためには「漢字・語彙・要約」の3つが要素として必須なのであるが、要約の半分は、読み取ったことを書き表すことである。そこから「表現」への的確な道も開けるといってよい。
Jan.21 < 終わりよければ…… >
お年賀に「始めよけれな半分よし、……」と書いた。その続きは「終わりよければ全てよし」となる。
いつごろ、誰が言ったのか定かでないが、けだし名言である。
(ネットで調べると、「始めよければ終わりよし」などいうようなものばかりが出てくるので、ネットで調べるのはやめておこう)。
名言である所以は、小論文の構成に見事に当てはまり、生徒諸君には論理構成のバロメーターになることである。ここでは、小論文を例にその模様を紹介しよう。
入試問題では、たいてい文章か統計が出て、考えを書くことになる。そこで、文章の場合は要旨を、統計の場合は読み取れる特徴(目立つところ)を第1段落に書く。
第2段落では、それに関連する体験や見聞をもとに、問題点を検討する。
検討の結果導かれることがらを結論(ないし考え)として第3段落に書く。
この第1〜3段落の内容は順に、序論(はじめ)、本論(なか)、結論(おわり)という論文の基本構成に当てはまる。
ここで、「始めよければ……」について考えてみると、これは採点者(試験官)の心理とも関連するが、序論の要旨なり特徴なりが的確に捉えられていれば、「よし!」となり、半分できたも同然となる。
本論では事例が要旨や特徴に関連したものでなければならないが、検討が多少もたもたしても、採点者の心は全体に向かっているから、あまり気にしなくてもよい。そこで、肝腎なのは結論となる。締めくくりが「ピシッ」と決まれば、もう一度「よし!」となり、Aランクに位置づけられると期待できる。
こう書けば話は簡単だが、実際には序論からしてうまくいかない。結論には最後まで苦労する。
この試練を乗り越えて、受験生諸君は試験会場に向かう。明22日から東京都の私立高校の推薦入試が始まる。
ー2015年ー
Nov.5<おばけ(その2)> Oct.8 <おばけ>
Jul.16 <要約の作業> Jun.25<6月の手紙>
Apr.30 <反響> Apr.2 <隠れた才能>
Feb.26<制限字数> Feb.5 <制限時間>
Jan.1 <お年賀>
Nov.5 < おばけ(その2) >
道場のおばけは、昼間は窓外のモミの木の股で眠っていて、暗くならないと活動を始めない。仮に起きて枝先に来たとしても、昼間は透明だから姿は見えない。
それではつまらない、というわけで、Yくん(中1)は、障子を開ければ目の前に顔が現れるような仕掛けを作った。と言っても、手の込んだことはできない。取りあえず、がらくた入れの中からお面を取り出して、竹の枝の付け根につるした。「5レンジャー」か何かのキャラクターのお面である。赤い顔に目が白い。
おもちゃのお面だが、障子を開けて、そんなものに出くわせば、誰でも一瞬ドキッとする。「ウォッ」と声を上げる男の子もいれば、ウータン(小5)のようにゲラゲラ笑いだす女の子もいる。
そんな中で、トッくん(小4)は開けたとたんに「ワッ」と叫んで、部屋の隅まで逃げた。
後日、その話を聞いたSくん(小6)は、「3メートルは逃げたのかな」と言った。すると、トッくんは「そんなに逃げないよ。ちょっと後ろに下がっただけだよ」と言った。「2メートルぐらいだったかな」と、ウータン。そして、「どっちにしても、逃げたことには変わりないじゃん」と言った。
そこから、Sくんの提唱によって、「2メートル3メートル」という言葉が生まれた。新しい慣用句にしてもよさそうだ。
おばけは、インテリジェントな副産物をもたらしてくれた。
Oct.8 < おばけ >
夕方の6時になって、タッちゃん(5年生)はファイルも筆入れもバッグにしまったが、帰ろうとしない。自転車で来ているから、「暗くなる前に帰ったほうがいいよ」と言うと、「おばけが見たい」と言う。
その日は水曜日だった。ふだんタッちゃんは土曜日の午前中に来ているのだが、4日前は運動会だったから、振り替えでこの日の4時半から来ているのだった。「暗くなると、おばけが姿を見せる」といううわさを耳にしていたらしい。
話は4年前にさかのぼるが、おばけの出る位置を確かめておいたほうがよかろう。
道場の教室は、6畳の2間である。通路の庭から入った部屋が板の間で、テーブルを囲んで定員3人の教室となっている。その奥に畳の部屋があって、ここは居残りの生徒や早く来た生徒の予備の部屋となっている。2つの部屋は南西向きで、窓の外は隣家の庭になっており、奥の部屋の机の前にはモミの木の枝が張り出してきている。おばけが出る時はその枝の上に姿を現すのである。
4年前の晩秋のころ、たまたま4年生のヤアくん、ユウくん、ヨウくんの3人がいた。そのうちのヤアくんが突然「あっ、おばけ」と言った。みんなは色めき立ったが、テレビ(そのころはまだブラウン管型のものを使っていた)の上に載せた地球儀が窓ガラスに映っているだけだった。
それがおばけに見えたのなら、ひとこと言ってみたくなる。
「あれはテレビの影だが、おばけがそのあたりに出ることもある。今は多分奥の部屋から見えるモミの木の中にいるかもしれない」。
奥の部屋では、中2のカイくんが窓のそばの机で自習をしていた。カイくんには今の話が聞こえていただろうから、「カイくん、おばけが枝の上に出てきてる?」と言うと、カイくんは心得たもので、「ああ、来ている、来ている」と言い、「こっちを見ている」とまで言った。
そうなると、3人は一斉に立ち上がって奥の部屋に向かう。しかし、敷居の所で止まったまま、中に入ろうとしない。背中を押すと、座り込んでしまう。そして、ユウくんは「明るい時に来て、見てみる」と言う。そこで、「明るいうちはモミの木の中で眠っているらしい。暗くならないと出てこないんだ」。
それが伝説となって、今に至っている。昼間はみんなのぞきたがるが、暗くなると窓ガラスの内側からしか見ようとしない。
タッちゃんは勇気を出して、窓から首を出して、枝先から枝の付け根まで見ていたが、見つけられなかったようだ。「そうか、今日は起きてすぐ、どこかへ出かけたのかもしれないね」。
Jul.16 < 要約の作業 >
ハッちゃんは目を宙に漂わせ、何やらつぶやいている。彼は5年生。説明文の第3段落を読んで、要点のまとめにかかっている。
「え〜っと、何だっけなあ」と言って、教科書を開いた。ああ、『1300年前』だ」と言って、本を閉じ、再び目を宙に漂わせた。そして、「よし」と言って、原稿用紙に向かった書き始めた。
要約の原則は、「本文を見ながらまとめようとしてはならない」ことである。それでは丸写しになりかねず、要約にはならない。何より頭が働いていない。要約の作業はあたまの体操でもある。
読んだことが頭に入っていなければ、もう一度本文を確かめてもよい。しかし、開きっぱなしではいけない。
小説・物語では、段落は場面ごととなる。1段落・1場面についての字数は100字程度がよい。一読して要点が分かる長さと考えられる。あまり細かな字数制限は設けない。要するに、要点をつかんでいさえればよいのである。
説明文・論説文の場合、段落の要点を抜き出した後は、それらを通読して、大段落の大意のまとめとなる(教科書では、たいてい4〜5段ごとに切れ目がある)。要点をつかんだ後は要旨の把握となるが、大意をつかみさえすれば、その文章を理解したことになる。
この作業は、「作文と国語」、または「国語」を履修する生徒は、学年を問わず、高校生まで全員が行う。
そのわけは、日本語で書かれているものは、だれでも「何となく分かる」。しかし、実際には「分かっていない」。その証拠に、「何と書いてあった ?」と聞かれても、たいていの人は「……」で答えられない。それが入試問題で、「筆者の考えを書きなさい」というふうな設問があると、とたんに四苦八苦となる。
入試のついでに、先までの展望を開いておくと、例えば一橋大学の国語の問題では、大きな問題3題のうち、1題は約2500字の長文を200字に要約せよという問題になっている。また、例えば慶応大学法学部では、社会、英語のほかに「論述力」という課題があり、約2000字の文章を300字に要約したうえで、それについて考えを700字で論述するという問題もある。
これらの入試問題については優れた問題、「良問」であると、識者の一致するところであるが、小学生の要約の作業も、これらの展望のもとにあると考えてよい。
功利的に考えなくとも、これによるメリットは、頭の体操であるほか、漢字を覚えられる、言語に習熟する、文章の理解が速くなるなど、枚挙に暇がないのである。
Jun.25 <6月の手紙>
道場では毎月下旬、通学生の家庭宛にお知らせの手紙を出している。
時候の挨拶、今後の日程、その時々の連絡事項、雑記(ホームページについての話など)といった程度の簡単なものであるが、WEBサイトには現れない道場の一面を紹介しよう。
今月は、自転車置き場にたまたま隣家の庭からアヤメが闖入してきたのが面白くて
写真に撮っておいたのだが、花の色がよく出ていないので、拡大写真を添えておこう。
なお、文面では「ちょっと自慢!」のサイトにたどり着くのが大変だが、WEB上では簡単である。こちらへ。
Apr.30 < 反響 >
当ホームページのアクセス数が、先週来倍増している。
考えられるのは、「株の売買ゲーム」の作文である。「賭博を勧める学校」と題して「世事雑感」のページに載せてある。
こちらの「世事雑感」へ。
「『株売買を教える学校』の記事を読みました。義務教育で何を教えたいのでしょうか。耳を疑います」というメールが寄せられている。
教室でも、お母さん方はこの話を聞くと、一様に「まあ!」と驚きの声を上げる。
どんな学校で、どの程度行われているのかは分からないが、問い合わせ先は次のようになっている。
日本証券業協会−金融・証券教育支援センター/電話;03−3667−8029/Eメール;8_edu@wan.jsda.or.jp
Apr.2 < 隠れた才能 >
春期講習は、今日を入れてあと4日で終わる。
春休みはどの生徒もどこかに出かけるのだが、先月21日からの約15日間、午前中の2コマ(9:00〜10:30、10:30〜12:00)は、それぞれほぼ3人ずつで収まった。
ここにこれを記すのは他ではない。どのコマも希望が重なることなく収まったからである。いつぞやもこんなことがあったが、不思議と言えば、不思議である。
「6畳一間、定員が3人なのに、ずいぶん多くの合格者が出ていますね」という声が聞かれる。合格者の一覧は、合格速報へ。
実は、合格者の中には通信講座による生徒も含まれているのだが、教室では合格の報が入るたび、B4の紙に校名を書いて、本棚に掲示する。1枚に4〜5校をカラーマジックペンで色分けして書いていくのだが、今年は4枚では足りず、5枚目を隣りの棚に継ぎ足していくことになった。手書きの下手な字であるが、カラフルである。
上記の声は、それを眺めての感想である。
「この子にこんな才能があるとは思わなかった」。作文に書いたのを見て、初めて分かることがよくある。先月は、立て続けに2つの才能の発見となった。
それぞれがどんな才能であるかは、実物を見て判断してもらうことにしよう。1つは直樹くん(小4)の「折り紙」で、これは既に「図工作文」のところに掲載している。
もう一つは、公介くん(小5)の「なぞの足あと」である。これは2週間後の4月16日に「エトセトラ」に掲載の予定である。
Feb.26 < 制限字数 >
「蛇足で減点されるより、字数不足で減点されろ」
これが、試験場に送り出すに際してのアドバイスである。
そのわけは、…………、その前に、下記「制限時間」の項で書き漏らしたことを補足しておこう。
これは、時間とは直接の関係のないことであるが、入試が近づくと気になるものにインフルエンザがある。
そのため、「手洗いとうがい」の励行が喧伝されるが、もっと根本的なことが忘れられがちである。それは「健康な体」である。体が丈夫でありさえすれば、インフルエンザは撃退できる。そう判断する一つの目安は、インフルエンザにかかるのは高齢者に多いことである。病気は体の弱い人を攻撃するようだ。
それが分かれば、対策は容易である。健康な体のもとは「栄養と睡眠」である。こんなことは当たり前すぎるのか、学校でもあまり話されないようだが、睡眠曲線を描きながら話すと、生徒たちは身を乗り出して聞き入る。
「きみは朝、自分で目を覚ましているか」と聞くと、寝坊助と夜更かし組の姿勢が改まる。そうして、「肉と野菜」という栄養のバランスの話も素直に聞き入れる。
話をもとに戻すと、受験生にとって、いざ試験となって気になるのは、時間のほかに、作文・小論文においては字数である。これをいかに克服するかが勝敗の分かれ目ともなる。
「500字以上600字以内」などとあると、受験生は何とか500字を満たそうと必死になる。そうなると、話は繰り返しになるか、話の筋とは関係のないことを付け加えるかになる。
そうならないために、ふだんから「筋書きづくり」をうるさく言っているのだが、もしもそうなったら、という話もしておかなければならない。それが冒頭のアドバイスとなる次第であるが、そのわけは、…………と書こうとしたところ、後ろからのぞき込んでいたAくんが「あのアドバイスは効きました。あれで受かったようなものです。そのわけを聞いて、安心して受けることができたように思います」と言う。
彼は続けて、「この道場に来なかったら、落ち着いて作文に取り組めなかったと思います。だから、そのわけまで書かないほうがいいのではないですか」と言う。
どうやら、「そのわけ」は企業秘密に属するもののようだ。
Aくんのアドバイスを聞き入れて、今日の話はひとまずここまでとしよう。
Feb.5 < 制限時間 >
道場の入試戦線は、1月中旬から2月初旬を山場として、3月初旬まで断続する。
合格の報は先月の中旬から、今日も続いている。「合格速報」はこちらへ。
振り返れば、例年のことながら、受験生には間際までいろいろなアドバイスをする。
その中で気がついたことを3つほど記しておこう。今回は奇しくも「−−時間」特集である。
(「面接の極意」などについては、「作文打出の小づち」の各編へ)。
制限時間;
「まず、『筋書きづくり』をして、それから書き始めよう」。これは、ふだんの練習の時から言っていることである。試験となると、生徒たちは45分とか50分という制限時間がどうしても気になる。そこで、気ばかりが焦って、取りとめのないことを書いてしまうことになる。そこで、「最初の10分か15分は筋書きづくりに充てよう。そうすれば、800字程度なら30分もあれば書ける」と言い聞かせる。
具体的には、「問題文や資料とにらめっこをして、『はじめ・なか・おわり』を決めるのだ」となる。「『始めよければ半分よし、終わりよければ全てよし』だ」。門出に当たっては、「始めと終わりをしっかり作るんだよ」と念押しする。
余談だが、初めて来た生徒の中には「50分いっぱいで書けました」と自慢げに言う子がいる。ところが、内容は貧弱である。手持ちの材料が乏しいままに書いているせいもある。そこで、「最初はどんなに時間がかかってもよいから、納得のいくものに仕上げよう。食料自給率のことなら、とことん調べるとよい」と助言する。すると、「でも、試験では調べることができないではないですか」と言う親御さんがいる。今調べていることが本番での材料になるのだ、と言っても分からないようで、そういう親は例文を求めてネットサーフィンをすることになるようだ。
休憩時間;
「もっぱら深呼吸をしていよう」。大学入試、高校入試では単語帳やノートに見入っている姿を目にするが、単語の1つや2つを覚えたところで何ほどの力になるものではない。それよりも、脳を活性化するほうがよほど力になるであろう。近頃は思考力が試されていることでもある。
そんな話をしていると、「この黒砂糖あめがいいんじゃない」と言う生徒がいた。「糖は脳の栄養でもあるし」というのだ。
道場では授業の後に、世にも珍しい(都内でも、近隣市でもお目にかかれない)フルーツ味の絶品のあめ玉を2つずつ持ち帰らせているが、そのほかに黒砂糖あめも置いてある。(これも知る人ぞ知る店でしか入手できない)。噛まずになめていると、黒あめが溶けて、やがて黒砂糖に行き当たる。そのプロセスが絶妙、絶品である。
「よし、それでは、休憩時間の数だけ、あめを持っていっていいことにしよう」と相なった。
集合時間;
これは余録である。
入試要項を見ていると、合格発表のすぐ後に「合格者保護者会」という説明会のある学校がある。そこには、「その会に遅刻、欠席の場合は辞退したものとみなします」とある。
今日はその学校の合格発表の日なのだ。午前0時現在、東京地方は大雪との予報である。どうか電車やバスが止まることのないようにと祈る。