Gallery 展示3 大学入試の小論文 (文章の要約と論述) |
① 「超高齢社会」 ② 「学問」 ○ 作文と小論文の違い |
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作文と小論文の違い
作文 − 出来事や経験の叙述を主とするもの。
小論文 ー 事柄の検討・考察を主とするもの。
実際に書くに当たっては、事柄(事実)を踏まえて意見や判断を述べさえすれば、
その違いを気にする必要はありません。
推薦入試では、新聞の社説やコラム記事がよく取り上げられます。
次の答案例は、朝日新聞の「天声人語」で練習した時のものです。
次の記事の要旨を100字程度でまとめ、それについて、あなたの思うところを500〜700字で述べなさい。 (模擬問題、時間ー90分) |
時々、数字をつきつけられてびっくりすることがある。近ごろ、最も驚いたのは「百歳以上の人の数」だった。何と、日本に5,593人もいるという。信じられぬ思いである。▼人生五十年といっていた時代もある。昔は百歳を越える人など、古風に言うなら、寥々たるものだった。つまり、きわめて数が少なかった。百歳以上の人が千人の大台に乗ったのが1981年のことだ。わずか13年間に、その数は五倍以上に増えたことになる▼もう一つ、驚かされたのが、8月1日現在の日本の人口統計の数字である。全人口に占める65歳以上の高齢者の比率が、14%台に達したという。同日現在の全人口は1億2485万人、高齢者の人口は1749万人である▼さらに驚かされたのが、高齢者の増え方を示す数字である。国連の統計などでは、高齢者人口が7%を超えると「老化が始まっている国」とされるそうだ。それが2倍の14%に達するまでの年数が高齢化の速度を表す一つの指標になるという。その点で、日本は群を抜いているらしい▼欧州には、高齢者人口が14%以上の国が多いだが、比率が7%から14%になるのに要した年数は、スウェーデン85年、イタリア60年、英国50年、ドイツ45年という具合だった。日本では、70年に7.07%となって以来、ほんの24年である。出生数の低下と寿命の延びが、高齢化を速めている▼小野庄一著、写真集『百歳王』を開いて、全国の百歳以上の人、104人の肖像に見入る。「歳をとるというと、しぼんで小さくなるという印象で見られがちですが、実際は体の中に豊かな『時と光と生命と宇宙』を作り上げてゆくことだと感じます」と小野さんは言う▼百年を経た、自然体の表情が並ぶ。日本の社会が新しい現実を迎えていることを実感する。 |
要 約 | 日本には百歳以上の人が5千500人以上もいる。欧州には高齢者の多い国が多いが、日本はそれらの国の2〜3倍の速さで高齢化が進んでいる。日本の社会が新しい現実を迎えていることを実感する。 |
論 述 | 百歳以上の人が1981年に千人台に乗ってから、わずか13年でその数が五倍以上に増えたのは、医療の発達の成果であると言えると思う。そして、医療は今や我々の生活になくてはならないものとなった。しかし、その医療の発達がもたらしたのは、いいものばかりではなかったと思う。 そう思う理由の一つは、我々が薬に依存するようになったことだ。病院が増えて通いやすくなり、また、いろいろな薬が簡単に、かつ、多量に与えられるようになった結果、薬漬け人間が出てきたのだ。もう一つは、延命措置が取られるようになった結果、死の判断がつきにくくなったことだ。寿命が延びているという統計の数字を見るとうれしいが、その寿命が機械によって延ばされているのだとしたら、あまり喜ぶ気持ちにはなれない。 私の伯父は脳梗塞を患って、左半身が動かない。伯父は「昔だったら死んでいたはずなのに。苦しまないで死にたかった」と言ったことがあった。生き延びられたことはうれしかっただろうと思うが、「死にたかった」という言葉も嘘ではないと思う。 5千593人のうち、どれだけの人が「生」を楽しんで生きているのだろうか。何人の人が延命装置の中で生きているのだろうか。今後ますます高齢化が進む中で、医療の問題も併せて考えていく必要があると思う。 (高3 S.H.) |
伯父さんの話が読み手に強い印象を与えます。
具体例のもつ強みです。
ただし、その話が入らなくても、
「論」は成り立っていることにも注意してください。
三段論法になっています。
この答案の筆者は、社会福祉学科に進み、
今、介護関係の仕事をしています。
次の文章の要旨を150〜200字でまとめなさい。また、この文章を参考にして、学問する意義について考えるところを1200字以内にまとめなさい。 |
要 旨 | 芸術品が他の作品に取って代わられたり時代遅れになったりすることがないのとは違って、学問は常に進歩すべく運命づけられている。その達成は、学問に生きる者には共通の目的でもあるが、進歩は無限に続くものであるため、学問は有意義なものであるかどうかという疑問も生じる。 |
論 述 | 「学問」とは「知らざるを学び、疑わしきを問う」ことだと何かで読んだことがある。これによれば、『学問のすすめ』といったような、私たち生徒が習っている学問は「知らざるを学び」のほうであり、ウェーバーの言う学問は「疑わしきを問う」のほうであろう。後者は、むしろ「研究」とか「科学」とかいったほうがふさわしいように思う。「学問に生きる者」というのは、いわゆる「学者」であろう。学者たちの業績は次々と新しいものに取ってかわられるというほかに、社会に貢献する反面、公害をもたらすといったような面で意義を問われることもあろう。ここでは、しかし、学者の世界のことはよく分からないので、私たち生徒にとっての学問について考えてみたい。 国際化の進んだ今日、歴史や地理、英語など、将来役に立ちそうな科目はある。反面、その専門の道にでも進まない限り役に立ちそうもない科目も多い。また、大学・高校を目指す高校生・中学生にとって、学問はもはや進学のためだけにするものになってしまっているようだ。では、本来、学問は何のためにするものだったのだろうか。私はそこに、現代の学生が学問をする意義について考えるカギがあるように思う。 もともと学問はごく限られた人たちのもの、例えば王侯や貴族たちのものだった。男性だけに限られていた時代もある。しかし、次第に平民や女性など、多くの人が学問をできるようになった。そんな時代には、自分の知らない世界を知ることができる学問を、自ら望んでやりたいと思う人が大勢いたと思われる。現在、私たちは望もうと望むまいと、義務教育という形で平等に学問をしている。高校や大学もその延長上にあると考えられ、行くのが当たり前のようになってしまっている。学びたいという気持ちが芽生える前に無理に、しかも、大して興味のない方面のものを押し付けられさえしている。だから、なぜ勉強などするのかといった疑問が出るのも当然の状況になっている。私たち現代っ子は恵まれた状態にあるといえるが、逆に本来の姿が見えなくなっているのである。 では、本来の姿、学問の本来のあり方は、どうすれば見えてくるであろうか。それは、学問という名の勉強をいったんやめてみることである。ここまで書いてきて、正直のところ、登校拒否児や中退者のほうが何か本物が見えているのではないかという気がする。脱出してみれば、その世界を客観的に眺められるのではないか。そうして、何かを学びたいという気持ちになれば、その時、本来の勉強なり学問が始まるのであろう。人ごとではない。もう一度、自分の興味を確かめてみよう。その上で進路を取り、やることを意義のあるものにしていきたいと思う。 (高3 N.H.) |
「要旨を踏まえて」(この出題では「資料文を参考にして」)
とはいっても、
経験を超えて考えを述べる必要はありません。
むしろ、
そうしてはならない、といったほうがよいでしょう。
理屈をこねまわすだけの、
わけの分からない答案になってしまうからです。
なお、
内容をなぞるだけで終わることのないよう
注意する必要もあります。
統計資料の読み取りについては
「展示5」の「ボランティア活動」を参考にしてください。